不思議なほど、大きな「喪失感」

講演は三度聞いただけ、話をしたのは一度だけという、中村哲医師の死をどう受け入れていいのか戸惑っている。
身近でない人の「死」で、これほど大きな喪失感を感じたことはない。
ボクは、もともと「人はいずれ死ぬもの」と達観してきた。それは、5歳の時に父を突然亡くし、小学生のころには、自分に「人って死ぬものだ」と納得させようと努力をしていたからだ。
授業のときに「ボクの外れない『予言』…」と言いながら、「この教室にいる全員、必ず死ぬ」と言うと、生徒は「ヤダァ~」「縁起でもない」と声を上げるが、「でも、死なない人間ていないはずだ」と言うと生徒たちも納得する。身内の死にも直接する経験の少ない生徒たちにとって、「死」というものは遠く、死が遠いと「生」のリアリティも弱くなるように思う。若い高校生にとって、自分の人生を丸ごと想像することは難しいが、チョッとした刺激にはなると思っている。


爆弾よりパン掲げ

 アフガニスタンで銃撃され、死亡した非政府組織(NGO)「ペシャワール会」現地代表、中村哲医師(73)。干ばつに苦しむ住民を用水路や堰の建設で救った人生は、水害や米軍の妨害など数多くの困難に直面していた。ままならない事態に悪戦苦闘しつつ進む姿勢は、「こちら特報部」に掲載された記事からもうかがえる。「爆弾よりパン」を掲げ、砂漠を緑に変えた仕事と信念とは。 (安藤恭子、佐藤直子)

銃撃の中村医師 アフガンでの苦闘 本紙で連載

死の砂漠が緑に
 「水路が広がるごとに田園が広がり、廃村が復活する。魔法のような光景だ。一木一草生えなかった荒野は、小麦の緑と菜の花の黄色いで鮮やかに覆われている」
 アフガン東部ジャララバードから北西数十㌔にある熱砂の谷「ガンベリ砂漠」。2010年、用水路の建設で緑の大地に生まれ変わった姿をリポートした中村さんの言葉だ。「こちら特報部」は09~14年、中村さんの連載記事「アフガンの地で」を掲載した。
 09年6月17日の記事は「『死の砂漠』緑化の夢 送水間近」。ペシャワール会の現地団体「平和医療団日本(PMS)」の650人が重機を使い、全長25㌔の「マルワリード用水路」建設作業に当たっていた。「毎日黙々と働くさまは、アリが巣をつくっているようだ。熱砂の大地で何事をたくらむのか、天は笑ってみておられるよう」
 熱風は時に50℃を超え、熱射病で倒れるものも続出した。土石流や米軍の妨害で作業は遅れた。この年、6年をかけた用水路は砂漠へと通水。地域のよりどころとなるモスク(礼拝堂)や学校も造った。
 ところが10年8月、100年に一度の大洪水が発生。用水路は守られたが、農民ら30万人が住む下流域の穀倉地帯、カマ郡の取水口が濁流で壊れた。中村さんは「成果が一瞬にしてついえた無力感」と嘆いたが、修復に載り出した。
 スタッフだった杉山大二郎さん(44)=福岡県=は通水式の日、流れる水をいとおしそうに見つめた中村さんを思いだす。「貧しい人たちへのまなざしと同じ。神聖な姿に言葉を失った。大勢の人が飢えに苦しむ。失敗したら、片腕を切り落とす覚悟と言っていた」

平和は戦争より努力と忍耐必要

 11年10月には、PMSの活動を妨害してきた水路対岸の長老たちが、過去の非礼をわびて和解する出来事も。護岸工事が始まったが、暴れ川の難工事だった。中村さんは連載で「平和は戦争以上の努力と忍耐が要る」とこぼした。
 14年5月の記事では、「マルワリード=カシコート連続堰」が完成、両岸の安定灌漑が保障されたと伝えた。ただ、それは広大なアフガンの一隅にすぎない。欧米軍の誤爆は続き、気候変動で農業生産は半減しているとも指揮した。「だが、絶望はしない。希望はある。温かく人を見守る自然のまなざしの中にある。眼前に広がる鮮やかな麦の緑がその実証だ」
 現在、PMSが手掛けた灌漑地は16500㌶まで広がり、60万人の難民が帰還した。取水堰の工法は、福岡県朝倉市の筑後川で使われてきた「山田堰」など日本の伝統工法がモデルだ。激しい川の流れに堰を斜めに配置することで、水圧を和らげる。17年末、現地の技術者らに工法を教えて訓練所もできた。
 協力した山田堰土地改良区前理事長の徳永哲也さん(72)は言う。「中村先生が求めたのは住民自身の手で維持可能な技術。壊れても現地で直せばいいと言っていた。アフガン全土に灌漑地を広げたいとした夢は道半ば。悔しいだろうけれど、水路によって平和を構築していった過程と熱意は現地に残されたと思う」

政府に頼らず 貫いた非軍事
アフガン人の中で生きる

 中村さんは、非政府、非軍事の活動にもこだわった。
 2000年、大干ばつで荒廃したアフガンに農業を復活させようと用水路の再生を開始、翌年9月11日、米中枢同時テロが発生した。「対テロ戦争」を宣言した米国は、首謀者を国際テロ組織アルカイダの故ウサマ・ビンラディン容疑者とみなし、活動拠点とみなしたアフガニスタンのタリバン政権に引き渡しを要求。拒否されると英国などの賛同を得て10月、「普及の自由作戦」と名付けた空襲を行なった。
 中村さんは直後の02年に掲載した連載「アフガン最新報告」に、「いま復興が進むアフガンの明るい姿が伝えられているが、アフガンの情勢は悪くなるばかりだ。地方の軍閥の争いは拡大し、米軍の空爆や誤爆も報道以上だ」と書き、政情不安で難民となった人々が首都カブールにあふれ、混乱する状況を伝えた。外国の復興支援ラッシュが家賃や物価の高騰を招き、一部の富裕層だけが潤い、圧倒的多数の貧困層が一層困窮したことも憂えた。
 先進国の思惑に人々が振り回されることへの怒りの矛先は、対テロ戦争に加担する日本政府に対しても容赦なく表明された。

自衛隊派遣は有害無益

 自衛隊の米軍支援を可能にするテロ特措法が論議された01年10月、衆院テロ対策特別委員会に参考人として出席。「(派遣される)自衛隊は侵略軍と受け取られ、対日感情は一挙に悪化する」「自衛隊派遣は有害無益。飢餓解消こそ最大問題」と述べた。議場にはヤジが飛び、発言の取り消しまで求められた。
 14年には連載「アフガンの地で」の中で、米軍が撤退を始め、再び現地の治安は悪化したと伝えた。「治安はこの30年で最悪だ」と書いた中村さんは、欧米軍の誤爆や爆破工作、米軍駐留を巡る駆け引きが錯綜する状況を「絶望的」と嘆き、訴えた。
 「軍事介入の置き土産は、撤退に伴う食糧価格の高騰。飢えた人々が追い詰められたときを思うと、戦慄せざるを得ない。『復興支援』が必要なのは今だ」
 そうした中、アフガン人の中で生きるという信念を貫いた。多くの支援団体が退去する中、安全性に配慮しながらとどまっていたが、悲劇は防げなかった。
 現地の人たちに地雷回避教育を進める国際非政府組織(NGO)「難民を助ける会」の堀江良彰事務局長は02年、テレビ番組で中村さんと共演したことがある。
 「身を守るには二つの方法があって、一つは銃器で武装するハードな方法、二つは現地の人と信頼関係を築いて襲撃されないようにするソフトなやり方。中村先生は、ソフトな方法でやっておられた。外務省から求められたのか、現地で求められたのか、最後に護衛をつけていた事情は分からないが、9・11以降は、援助組織に対しても政治性を帯びた襲撃が増えた。中村先生でも護衛をつけなくてはならないほど、現地の治安が悪化しているということでは」
 03年のイラク戦争の後、国際協力NGOを運営して現地で医療支援などを続けてきた佐藤真紀さんも「中村さんの姿を通して、人道支援とは何か、人の道とは何かを考えさせられる。中村さんが現地の人たちの信頼を得て、かかわり続けたモチベーションは本当にすごい」と語り、こう訴える。
 「憲法9条を掲げる国として、インド洋での米艦船への洋上給油など対テロ戦争に加担したことは大きな罪だった。日本政府は日本人が再び信頼を取り戻し、援助組織が現地できちんと活動できるよう、この過ちを認めるべきだ」

デスクメモ
 患者を救うため、井戸を掘る。砂漠に水を引き、農地に変える。それが平和につながる―。中村さんの言葉や行動は、シンプルで胸に響く。高度な情報や技術でつくられた私たちの社会が、失った生き方でもあるからか。簡単なはずがない。それでも貫き、消えない足跡を刻んだ。            (本)



「喪失感は余りにも大きい」
中村哲さんが学んだ母校が哀悼文
2019年12月6日:dot.

 中村哲さんが亡くなられたことに、日本中いや、世界中が大きな悲しみに包まれている。

 中村さんは1946年福岡県福岡市生まれ。福岡県古賀市立古賀西小学校、西南学院中学校、福岡県立福岡高校を経て九州大学医学部に入学した。

 今回の悲報を受けて、中村哲さんの母校すべてが哀悼文を掲げている。どんなに著名な政治家、学者、社長でも、出身の教育機関からこれほど愛される方はいない。平和、人権に、身をもって貢献されたからだろう。

 いま、国や教育機関がグローバル人材の育成を訴えているが、中村さんの功績を前にすると、どれもうわべだけの掛け声に見えてしまう。それほど中村さんは、世界最高の「グローバル人材」と言っていい。

 中村さんの母校は卒業生の功績を誇りに思い、哀悼の意を伝えている。古賀西小学校では追悼放送集会を行い、全校で黙祷を捧げている。

 西南学院中学校は、中村さんにクリスチャンとしての生き方を教えたようだ。なお、西南学院は「平和宣言」を掲げている。

 県立福岡高校は中村さんの生きざまを教育実践として活かすという。

 九州大で、中村さんは特別主幹教授に就任し、学生、教職員、市民に「飢えと渇きは薬では治せない」と訴えていた。

 以下、古賀西小学校、西南学院中学校、福岡高校、九州大学の哀悼文全文を紹介しよう(古賀西小学校はフェイスブック、他は学校、大学のウェブサイトから引用)

* * *
◆古賀西小学校

 12月4日、わたしたち古賀西小学校の偉大な先輩である中村哲さんが、アフガニスタンで武装集団に銃撃され、お亡くなりになられました。突然の悲報に驚きと深い悲しみに包まれました。謹んでお悔やみを申し上げます。それを受けて、12月4日1校時に、追悼放送集会を行い、全校で黙祷を捧げました。中村哲さんの思いや生き方を、みんなで引き継いでいきたいと思います。ご冥福をお祈り申し上げます。

◆西南学院中学校・高等学校

 中村哲先生のご訃報に接し、心から哀悼の意を表します。

 若き日に西南学院中学校(1962年卒)でキリスト教に出会い、キリスト者になられた先生は、西南学院とその教育を愛してくださり、ご帰国のおりにはたびたび学院に足をお運びいただき、西南学院中学校・高等学校の生徒や、西南学院大学の学生に現地でのお働きについてお話ししてくださいました。

 西南学院が創立百周年を迎えた2016年には、5月14日に行われた記念式典において記念講演の講師としてお迎えしたほか、同月24日には中学校・高等学校の後輩たちに志を語ってくださいました。

「西南学院創立百周年に当たっての平和宣言」を公表し、平和を実現する者として歩む西南学院にとりまして、異文化の地で隣人と共に歩まれた先生の生き方は、西南学院における「平和構築」のあり方を体現しておられると思います。

 そのような先生のお働きに感謝し、西南学院はこれからも先生の志を大切にして歩む教育機関でありたいと心から願います。

 中村先生のご遺族、先生とともに銃撃を受けてお亡くなりになった現地スタッフの方々のご遺族、ペシャワール会をはじめ関係者の皆様に主イエス・キリストによる慰めがありますよう、心からお祈り申し上げます。

◆福岡県立福岡高等学校

 昨年6月の創立百周年記念パネルディスカッションでもお世話になった、本校17回生の中村哲先輩が、12月4日アフガニスタンで凶弾に倒れ亡くなられたという悲報が届きました。

 本校にとって中村先輩の生きざまは誇りであり、実践やその根底にある思いを飾らない言葉で我々に語ってくださった偉大な先輩を、このような形で失った喪失感は余りにも大きく、今は言い表す言葉が思い浮かびません。

 福高生のために語ってくださったひとつひとつの言葉を振り返り、これからの教育実践に活かしていくことで、その思いに応えてまいりたいと思っています。

 心からご冥福をお祈りいたします。

◆九州大学

中村哲特別主幹教授の訃報について

 中村哲先生の突然の訃報に接し、現地の復興のために尽力してこられた先生が、このような形で命を落とされることは痛恨の極みであり、その理不尽さに憤りを禁じえません。九州大学教職員・学生を代表し心からご冥福をお祈りいたします。

 中村哲先生は昭和48(1973)年3月に本学医学部医学科をご卒業され昭和59(1984)年にペシャワール会現地代表となられて以来、パキスタンやアフガニスタンにて医療活動に従事する傍ら、2000年に大干ばつに見舞われた際、「百の診療所より一本の用水路が必要」なことを痛感され、2003年からは農村復興のための水利事業を続けてこられました。そしてなによりも人の和を大切にされ、現地の人々の強い信頼のもと取り組んでこられました。

 本学においては平成26(2014)年の特別主幹教授就任以来、毎年本学学生・教職員そして市民の皆様に対し貴重な経験より、「飢えと渇きは薬では治せない」と語られ、これまでの取組やその想いをご講演いただきました。その成し遂げた事業の壮大さに強い感銘を受けるとともに、これまでの経験を通して感じた思いを率直に、そして丁寧に語られる姿に、先生の温かで誠実な人柄を感じてまいりました。

 改めてご冥福をお祈りするとともにご家族様には心よりお悔やみ申し上げます。

(文/教育ジャーナリスト・小林哲夫)



<社説>
中村哲さん銃撃死 非暴力の実践継承したい
2019年12月6日:琉球新報

 アフガニスタンの復興支援に取り組んできた非政府組織「ペシャワール会」現地代表で医師の中村哲さんが、現地で武装した集団に銃撃され、亡くなった。誰よりも非暴力を貫き、アフガンの平和構築に尽くしていただけに、志半ばで凶弾に倒れたことは無念でならない。
 中村さんは戦乱や貧困に苦しむアフガニスタンの人々のため、危険を覚悟で長年にわたり紛争地に根を張ってきた。「誰も行かないところに行く、他人のやりたがらないことをやる」という信念で、医療活動にとどまらず井戸を掘り、砂漠に緑を取り戻すため農業用水路を開いた。
 アフガンの自立を手助けし、人々が貧しさから抜け出して武器を捨て、平和な営みが訪れることを信じた。国家や民族、宗教に関わりなく罪のない人たちに手を差し伸べる人道主義に基づいた実践は、日本人が世界に誇る民生支援の姿を示してくれた。
 沖縄が目指す平和の在り方でも模範となった。2002年に県が創設した沖縄平和賞の最初の受賞者がペシャワール会だった。沖縄戦の犠牲となり、戦後も広大な米軍基地が存在する沖縄の苦悩や矛盾に中村さんは「全アジア世界の縮図」と思いを寄せた。沖縄の人々もまた、「非暴力と無私の奉仕」に共鳴した。
 授賞式で中村さんは「私たちの活動を非暴力による平和の貢献として沖縄県民が認めてくれたことは特別の意味がある」と喜びをかみしめた。創設の意義にふさわしい受賞者であり、その活動を顕彰できたことは県民の誇りだ。
 今年10月にアフガン政府から「最大の英雄」として名誉市民権が授与されたばかりだった。現地に尽くし、尊敬を集めた中村さんが、なぜ襲撃の対象となったのか。不条理な暴力に怒りを覚える。
 それと同時に、米国の武力行使に追随する日本政府の姿勢が、海外の紛争地で活動する日本人の安全を脅かしていることを危惧する。
 2001年の米中枢同時テロへの報復で米国はタリバンが拠点とするアフガンに空爆を開始し、日本も支持を表明した。米軍がイラクに侵攻した翌04年には、南部サマワに陸上自衛隊を派遣した。
 集団的自衛権の行使を可能にした15年の安全保障関連法の成立を巡って、中村さんは「ほかの国と違い、日本は戦争をしないと信じられてきたから、われわれは守られ、活動を続けることができた」と警鐘を鳴らしていた。
 武器輸出の容認や9条改憲の動きが強まる中で、日本は中立だと諸外国に主張することが難しくなっている。軍事的な対米追従の流れに、辺野古の新基地建設もある。
 中村さんが遺(のこ)した非暴力の実践を受け継ぐとともに、憲法が掲げる平和主義の重みをかみしめたい。ペシャワール会の活動に敬意を表しつつ、多くの県民と共に中村さんのご冥福を心からお祈りする。



中村医師の銃撃死 命尊ぶ信念引き継ぎたい
2019年12月6日:毎日新聞

 志半ばであったはずだ。しかし、足跡はアフガニスタンの大地に深く刻み込まれている。
 混乱が続くアフガンで長年にわたり人道支援に携わってきたNGO「ペシャワール会」の医師、中村哲さんが、現地で武装集団に銃撃され亡くなった。
 並外れた信念と行動の人だった。
 パキスタンで始めた医療支援をきっかけに、アフガンに軸足を移していった。アフガンは2000年に大干ばつに見舞われ、飢えと渇きが広がった。命を救うには清潔な水と食料が必要だった。
 医療の枠を超え、井戸や農業用水路の建設に取り組んできた。掘った井戸は1600本、1万6500ヘクタールを沃野(よくや)に変えた。土木は独学だ。
 アフガンの若者が武装勢力に加わる背景には、貧困がある。干ばつと戦火で荒廃した農業の再生による貧困解消が、負の連鎖を断ち切るという確信があった。
 安倍晋三首相は「命がけでさまざまな業績を上げられた。本当にショック」と悼んだ。
 しかし、首相が14年に集団的自衛権行使を巡り、海外NGOのための自衛隊任務拡大に言及した際、中村さんは「不必要な敵を作らないことこそ内閣の責任」とクギを刺した。武力による紛争解決に異議を唱えていた。
 アフガンは治安の悪化に歯止めがかからない。01年の米同時多発テロ後、米軍とタリバンなど反政府武装勢力との戦闘が続く。
 国連によると、昨年だけでも3804人の民間人が犠牲になった。人道援助団体も攻撃対象になり、今年1~8月で27人が死亡した。
 治安悪化を理由に援助は先細る。銃撃事件を受け、さらに及び腰にならないか心配だ。両国が協力して事実関係解明に努めてほしい。
 ペシャワール会は活動を継続する方針だ。国際社会はアフガンを見捨てずに、志を引き継ぐ責任がある。
 訃報を受けてアフガンでも悲しみの声が広がっている。文化や伝統を尊重し、地域に根ざした支援で信頼を得てきたことの表れだろう。
 中村さんはかつて、人々との相互信頼が武器よりも大事だと語っていた。その思いをいま一度、かみしめたい。



社説[中村哲さん銃撃死]
現場で貫いた平和貢献
2019年12月6日:沖縄タイムス

 アフガニスタンで長年、人道支援に取り組んできたNGO「ペシャワール会」現地代表で医師の中村哲さん(73)が銃撃され死亡した。
 危険と隣り合わせの地で、医療分野にとどまらず、現地の人が生きるために必要な水源確保やかんがい事業を手掛けるなど、多大な足跡を残した。こうした形で命が奪われたことは本当に残念である。心から哀悼の意を表したい。
 中村さんは1984年、パキスタン北西部のペシャワルに赴き、ハンセン病の治療に当たった。同時にアフガン難民の診療の必要性を知り、アフガン国内に活動拠点を移していった。
 2000年にアフガンを襲った大干ばつをきっかけに、飲料水確保のための井戸を掘る活動を始めた。「飢えや渇きは薬では治せない」として、人々が食糧を確保するため用水路の建設も手掛けた。
 常に弱者に寄り添い、人々の暮らしを見つめ、その土地にあった支援とは何かを問い続けた。
 用水路の建設では、住民が管理・維持できるよう地元の石工技術、素材を活用した。一過性ではない、人々の「生きる」を支えることに徹したのだ。
 現場主義を貫いた中村さんが、日本の国際貢献の在り方に疑問を投げ掛ける場面もあった。
 新テロ特措法改正を巡る国会の参考人招致では、日本政府のアフガンへの自衛隊派遣の検討を批判。「治安が悪化する」「軍事活動では何も解決しない」などと武力によらない平和を訴えた。
■    ■
 ペシャワール会は02年、沖縄県が創設した第1回「沖縄平和賞」を受賞した。平和と人間の安全保障に貢献し、命の救済と基本的権利の確保のために尽くすことにより、普遍的な平和への意識を喚起することに成功した-として活動が評価された。
 中村さんは受賞あいさつで「平和を唱えることさえ暴力的制裁を受けるという厳しい現地の状況の中で、その奪われた平和の声を、基地の島沖縄の人々が代弁するのは現地にいる日本人としては非常に名誉」と述べている。
 空爆などで幼い命が失われていくアフガンの状況と、米軍基地を背負う沖縄の不条理さを重ねた言葉である。
 アフガン政府から18年に同国の保健や農業分野で貢献したとして勲章を授与され、ことし10月には名誉市民権を与えられたばかりだった。
 中村さんの支援の功績が認められた結果である。
■    ■
 アフガニスタンでは01年の米同時多発テロ発生後、米軍などによる攻撃でタリバン政権が崩壊したが、反政府武装勢力の攻撃など混迷は続いている。和平実現には程遠い現状にある。
 そんな危険な状況の中でも支援の現場に立ち続けたのは、「平和の達成には軍事力ではなく、地域に溶け込んだ国際貢献だ」という強い信念からだ。
 非暴力を貫き、常に弱い者の側に立ち、真の平和貢献を体現した中村さんの遺志を引き継ぐことが私たちの役割である。



中村哲さん殺害
 アフガン混迷の中の死を悼む
2019年12月7日:読売新聞

 アフガニスタンの復興に身をささげながら、理不尽に命を奪われた。卑劣で許し難い凶行だ。
 民間活動団体「ペシャワール会」の現地代表で医師の中村哲さんがアフガン東部で銃撃され、死亡した。さぞかし無念だっただろう。
 中村さんは1984年にパキスタンのペシャワルでハンセン病患者の診療を始め、隣国アフガンに拠点を移した。2000年の大干ばつを契機に、井戸や農業用水路の整備を始めた。
 「薬で飢えは治せない」「100の診療所より1本の用水路」と訴えた。土木を独学し、重機を自ら運転した。地元の住民と1600本以上の井戸を掘り、1万6500ヘクタールの農地に水を供給して、65万人の生活を支えた。
 アジアのノーベル賞と呼ばれるマグサイサイ賞を受け、アフガン大統領から勲章や市民証も贈られた。現地の人々の厚い信頼を得ていた証しである。
 海外の紛争地では、現地政府への揺さぶりや身代金目的で、外国人や国際支援団体を標的にしたテロや誘拐が絶えない。中村さんは移動の際に警備員を付けるなど、細心の注意を払っていた。
 自らの安全を確保しながら、人道支援活動を続ける。その過酷さを改めて認識させられる。
 アフガンでは、治安の悪化に歯止めがかからない。中村さんが活動していた地域は、旧支配勢力タリバンが影響力を持つ。イスラム過激派組織「イスラム国」も活動を活発化させている。
 2001年の米同時テロで実行犯をかくまっていたタリバン政権は、米国の攻撃で崩壊した。だが、その後に勢力を回復し、アフガン治安部隊や駐留外国軍との戦闘を続け、テロも行っている。
 テロや戦闘などによるアフガンの民間人の死傷者は、14年から5年連続で1万人を超えた。
 問題は、治安維持の責任を担うアフガン治安部隊が機能していないことだ。5年前に米軍などから治安権限を移譲されたが、能力と装備の不足は否めない。
 トランプ米政権は1万4000人規模の駐留米軍を削減する方針を示している。拙速な撤収は情勢のさらなる悪化につながりかねない。慎重に対応すべきだ。
 9月末に行われたアフガン大統領選は、不正投票疑惑で集計が進まず、いまだに当選者が決まらない。国際社会の支援先細りを避けるうえでも、すみやかに新政権を発足させ、政治と治安の安定に取り組む努力が欠かせない。

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