アフガニスタンで中村哲医師が亡くなった…。

「医者、井戸を掘る」「医者、用水路を掘る」というドキュメンタリがある。このドキュメンタリの「医者」が中村哲さんだ。中村さんとは、チョッとだけ接点がある。彼の講演は3度ほど聞いた。地理Aのコラムにペシャワール会のこと、井戸を掘り住民の命を救い、用水路を掘って生活を安定させる中村石のことを書くため、ペシャワール会とやり取りしたときに、一度話したことがある。穏やかで「私」のない人柄で、どこかの、「公私混同」、我欲のかたまった人物とは真逆のひとだ。
その中村医師が「アフガニスタンで撃たれた」という一報は、稲毛駅から東京行きの快速に乗ったときスマホの一行ニュースで知った。詳しいことがわからず、妙な不安で心が揺れた。「アベくん、辞めてくれ!シュシュ官邸門前行動」に参加のため、国会議事堂前駅を降りて地上に出ると、警備のおまわりさんたちが「絶対、車道には出すな」と打ち合わせをしていた。ボクたちは、警備のおまわりさんに囲まれて、首相官邸前交差点の東南隅の一角に押し込められた。ボクの“流星号”はスペースを取るので、集会が始まる直前に離脱した。帰宅すると「アフガニスタンで中村さんが撃たれて亡くなった」と家族が教えてくれた。なんとも言えない動揺が、ボクを襲った。授業で中村さんの活動をビデオで見せると、素直な生徒たちは「あのおじいちゃん、だいじょうぶ?」と中村さんを心配していた。生徒にはおじいさんに見えるのだろうが、まだ73歳だった。(ビデオに写っている中村さんはたぶん60歳のころだろう)
中村さんは「あと20年は、アフガニスタンで活動する」と言っていたそうだ。その中村さんが亡くなった。
中村さんは「地の塩」として生き、亡くなった。クリスチャンであり、ゲバラと同じ、ハンセン病の医師でもあった彼はもういない。


接近する車、突然の銃撃
 中村医師はなぜ狙われたのか
2019年12月4日:朝日新聞

 アフガニスタンで30年以上にわたって人道支援を続けてきたNGO「ペシャワール会」の現地代表、中村哲医師(73)が4日朝、道半ばで命を奪われた。現場では何が起きたのか。アフガニスタンの人々から深く感謝されている中村さんが、なぜ狙われたのか。
 朝日新聞の電話取材に応じた現地の住民によると、銃撃が起きたのは4日午前8時ごろだった。中村さんが乗る四輪駆動車を待ち伏せするように、不審な車が通りに停車。車から降りてきた男が中村さんの四駆が差し掛かるタイミングで、タイヤに向けて発砲した。その後、男は中村さんに向けて銃を撃ち、車に戻って逃走した。銃撃を受けた四駆のドアからは大量の血が流れ出していたという。
 「ペシャワール会」によると、中村さんは当時、運転手やスタッフとともに車で灌漑(かんがい)事業を進める場所に向かっていた。銃撃により、運転手やスタッフら5人も犠牲になったという。
 アフガニスタンの武装勢力は、外国人や要人を襲撃する場合、標的にする人物の行動をつかみやすい出勤や帰宅時を狙うことが多い。同会によると、中村さんは通常、午前7~8時に宿舎を出発することにしていたといい、襲撃犯が尾行によって中村さんの行動パターンを事前に把握していた可能性がある。
 事件を受けて会見した同会は「セキュリティーには気を配っていた。一番危ないのは移動中だと認識しており、同じ道を通らぬようにして、警備員を付けていた」と説明した。
 アフガニスタンは政情悪化が著しく、国家予算の大半が治安分野に費やされ、干ばつ被害の復旧や医療が立ち遅れてきた。中村さんたちの活動は、現地の行政サービスが届かない地域にとって、「命綱」ともいえる存在だった。このため、ガニ大統領からもその功績をたたえられ、勲章や名誉市民権を授与されてきた。

ほかのNGO萎縮狙う?

 一方で、襲撃犯にとって、著名な中村さんを襲うことで、治安面の不安を浮き彫りにし、他のNGOの活動を萎縮させる効果も期待できる。政府の治安維持機能の低さを国内外に知らしめることにもなり、自らの勢力を誇示する狙いがあった可能性もある。(バンコク=乗京真知、貝瀬秋彦)



中村哲医師が死亡 アフガンで銃撃受け
 右胸に銃弾 政治テロかは不明
2019年12月4日:毎日新聞

中村哲さん=2016年、内藤絵美撮影

 アフガニスタン東部ナンガルハル州の当局者によると、州都ジャララバード近郊で4日朝、現地で農業支援などに取り組んでいる福岡市のNGO「ペシャワール会」現地代表で医師の中村哲(てつ)さん(73)が乗った車が武装集団に襲撃された。中村さんは負傷し、病院に搬送された後に死亡した。州当局者によると、運転手のアフガニスタン人男性ら一緒にいた5人も全員死亡したという。犯行声明は出ていない。
 同会などによると、銃撃があったのは現地時間の4日午前8時(日本時間同日午後0時半)ごろ。中村さんはオフィスと宿舎があるジャララバードから約25キロ離れた、かんがい用水事業の活動現場まで四輪駆動車で移動中に何者かに襲われたという。中村さんは上半身に銃弾2発を受け、搬送先の病院で緊急手術を受けたが、その後、首都カブール北方のバグラム米空軍基地に運ばれる途中で死亡した。
 州当局者によると、中村さんと共に襲撃されたのは運転手1人、ボディーガード3人と労働者とみられる乗客1人の計5人で、襲撃を受けた現場でほぼ即死の状態だったという。日本人は中村さん以外にいなかった。
 4日に福岡市の事務局で記者会見した同会の福元満治・広報担当理事は、襲撃の背景について「単純な物取りか政治的なものかは分からない」と述べた。一方、旧支配勢力タリバンのムジャヒド報道官は4日、「襲撃には関与していない。この団体(ペシャワール会)は復興に関わっており、タリバンと良好な関係を持っていた。(この団体の)誰も標的ではない」とコメントした。
 一方、アフガニスタンのガニ大統領は声明を出し、事件を「非情なテロ」と強く非難。日本の駐アフガニスタン大使に電話で弔意を伝えたと明かしたうえで、「アフガン国民は彼の働きを決して忘れない」と中村さんの功績をたたえた。
 中村さんは福岡市生まれ。1973年に九州大学医学部を卒業した。国内の病院勤務を経て、84年にパキスタンで医療支援を始め、アフガニスタンへ拠点を移した。医療活動の一方、2003年からは深刻な干ばつで苦しむ同国東部で用水路建設を開始。年間の半分以上は現地に滞在し、農業振興に取り組んでいた。同年には「アジアのノーベル賞」とも言われるマグサイサイ賞(平和と国際理解部門)を受賞した。今回は11月16日に一時帰国し、29日に現地に向かったばかりだった。
 ペシャワール会の活動では08年8月にも、アフガニスタン東部で農業支援をしていた伊藤和也さん(当時31歳)が武装集団に拉致、殺害された。【佐野格、石井尚、ニューデリー松井聡】

用水路の建設に携わる中村哲さん(左)
=アフガニスタン東部のカマ郡で2008年(ペシャワール会提供)

海外で日本人が巻き込まれ死亡した主な事件(年齢・肩書は当時)

■2002年10月 インドネシア・バリ島の爆弾テロで日本人夫婦を含む観光客ら200人以上が死亡
■2003年11月 イラクで奥克彦さん(45)ら日本人外交官2人が殺害される
■2004年10月 イラク旅行中の香田証生さん(24)が拉致、殺害される
■2005年10月 インドネシア・バリ島の同時爆弾テロで旅行中の大学職員、川崎昭雄さん(51)を含む約20人が死亡
■2008年 8月 アフガニスタンで「ペシャワール会」スタッフの伊藤和也さん(31)が拉致、殺害される
■2008年11月 インド・ムンバイの同時多発テロ事件で、出張中の会社員、津田尚志さん(38)を含む160人以上が死亡
■2013年 1月 アルジェリアの天然ガス関連施設が襲われ、プラント建設大手「日揮」従業員ら日本人10人が死亡
■2016年 7月 バングラデシュ・ダッカのレストランが襲撃され日本人7人を含む22人が死亡



中村哲さん「現地で神様のように慕われ…」
突然の悲報に関係者絶句
2019年12月4日:毎日新聞

用水路の建設に携わる中村哲さん(左)
=アフガニスタン東部のカマ郡で2008年(ペシャワール会提供)

 「誰も行かない所でこそ我々は必要とされる」との信念でアフガニスタンで長年にわたって人道支援に取り組んできた「ペシャワール会」の現地代表で医師の中村哲さん(73)を襲った銃弾。突然の悲報に関係者は絶句し、「現地で神様のように慕われていた」と悼んだ。
 アフガニスタンや中東など世界の紛争地を取材しているジャーナリスト、西谷文和さん(59)は「何十万の命を救った人を襲った卑劣な犯行で強い怒りを感じる。中村さんの活動は世界中で人道支援の手本とされてきた。アフガンにとっても世界にとっても大きな損失だ」と悔しがった。
 西谷さんは2010年1月、アフガニスタンで中村さんに出会い、ペシャワール会が現地で整備していた用水路などを案内してもらった。現地の部族長が次々と訪れて中村さんに握手を求めていた姿に「偉ぶるところもなく、慕われていた。現地で神様のような人なんだと感じた」と振り返る。
 治安の悪い地域での活動の難しさを知る西谷さんだが、「これでアフガンから支援団体が去れば、貧困が増えて紛争がさらに増える。後に続く人が中村さんの遺志を継ぎ、恐れず活動することが重要だ」と強調した。
 アフガニスタン東部ナンガルハル州の州都ジャララバードを拠点に17年まで23年間、女性や子供たちへの支援活動をしてきた元「宝塚・アフガニスタン友好協会」代表の西垣敬子さん(84)=兵庫県宝塚市=は、突然の訃報に「言葉にならないぐらいショック。受け入れられない」と言葉を詰まらせた。
 活動は異なったが現地で食事をしたこともあり、街中でよくすれ違ったという。「仕事熱心で穏やかな人柄。地元の人たちから厚い信頼を寄せられていた先生をいったい誰が襲ったのか」と憤った。

地図を示してアフガニスタンの干ばつ状況を説明する中村哲さん
=福岡市中央区春吉1のペシャワール会事務局で2018年11月16日、中村敦茂撮影

「武器を一切使わない平和、生き方で示した」

 中村さんが1978年から90年代まで勤務し、副院長も務めた馬場病院(福岡県広川町)の馬場繁行院長(82)は、中村さんが2~3年前に病院を訪れた時に「食糧がないと平和にはならない。その基本がかんがいなんだ」と力強く語っていたのを覚えている。「患者にも職員にも誠実で熱心な副院長だった。同じようにアフガンの人たちにも接していたのだろう。亡くなったと聞いて言葉がない」
 中村さんのいとこで、ともに芥川賞作家・火野葦平を伯父に持つサッカーJ3・ギラヴァンツ北九州社長の玉井行人(ゆきと)さん(62)は「負傷の一報を聞いて覚悟はしていたが、助かってほしかった」と無念さをにじませた。中村さんの活動について「武器を一切使わない平和構築、暴力の否定を生き方で示した。この活動の灯は消してはいけないと思う」と語った。
 一方、中村さんを知る各界の著名人からも悼む声が上がった。
 俳優の故菅原文太さんの依頼で13年に中村さんと対談した医師の鎌田實(みのる)さん(71)は「スケールの大きな方でした。とても残念です」と語った。
 中村さんはアフガニスタン、鎌田さんはイラクで、それぞれ現地の平和を目指してNGOの活動を続けていた。それだけに鎌田さんは「僕の活動地域よりはるかに危険な場所で命がけでやっていた。彼は聴診器では数えるほどの人しか助けられないと考え、自分で重機を動かした。対談では『誰もそこへ行かないなら我々が行く』と語っていた。現地の人も無念に思っているでしょう」と悼んだ。

「混乱した世界に希望の光を投げかけた遺志をこれからも応援」


開通した水利施設で笑顔を見せる中村哲さん(右から2人目)
=アフガニスタン東部で2004年2月(ペシャワール会提供)

 菅原さんの妻、文子さん(77)は「びっくりしたというより、悲しいですね」と言葉を詰まらせた。文子さんによると、中村さんと夫妻の付き合いは約十数年前、菅原さんがパーソナリティーを務めたラジオ番組に中村さんがゲスト出演したのがきっかけだった。
 文子さんは「私たちが『ノーベル平和賞がもらえるのでは』と中村先生に話したら、『俺は米国に嫌われているから無理だよ』と笑っていた。イスラム世界とアフガニスタンを愛した中村先生なので、事件をきっかけにイスラム世界に対する日本人の憎悪をあおるようなことがないよう願います」と語った。
 中村さんと交流があった歌手の加藤登紀子さんは「心臓が止まりそうになりました。残念な気持ちと、許せない怒りでいっぱいです」と悲しんだ。交流のきっかけは、01年9月11日の米同時多発テロ直後、加藤さんがコンサートで中村さんの活動を支援する募金活動を始めたことだったという。その後も年末のコンサート会場で募金をしてきた。
 加藤さんは「哲さんは『人々の命を守るために必要なことは、砂漠を緑に変え、人々の暮らしを取り戻すこと』という信念を貫き、たくさんの村を復活させてきた。混乱した世界に希望の光を投げかけた遺志をこれからも応援していかなければならない」と述べた。【まとめ・吉川雄策】


アフガンで活動の医師・中村哲さんに聞く
憲法、守るより実行すべきだ
9条はリアルで大きな力
「日本人だから」命拾い何度も
2013年6月6日:毎日新聞

中村哲さん=茨城県土浦市で2013年5月、小國綾子撮影

暗い会場のスクリーンに1枚の写真が映し出された。干ばつで広がる砂漠には草木一本生えていない。「この地に私たちが用水路を建設した1年後の写真がこれです」。次の写真が映し出された瞬間、会場にいる約1200人から自然と拍手が湧き起こった。
 まぶしいほどの緑、緑、緑。壇上で、ペシャワール会現地代表の中村哲さんが静かに言い添える。「この地に15万人の難民が戻ってきました」。拍手が鳴りやまない。生命力あふれる大地の写真は、どんな言葉より雄弁だ。
 茨城・土浦市民会館の2階席の片隅で、壇上の中村さんに目を凝らした。日本よりアフガニスタンにいる方がずっと長いこの人が、ことあるごとに憲法について語るのはなぜなのか。その理由を知りたいと思った。
 2時間に及ぶ講演後、別室で話を聞いた。アフガニスタンでは丸い帽子がトレードマークなのに、この日はネクタイにスーツ姿。「保護色です」とちゃめっ気たっぷりの中村さん。「日本じゃスーツを着ておけば、街にいても目立ちませんからね」
 でも、微妙に似合っていないかも。両手の甲が驚くほど日焼けしている。帰国直前まで重機を運転していたというこの両手、いったい何人の命を救ってきたのだろう。
 1984年から最初はパキスタンのハンセン病の病棟で、後にアフガニスタンの山岳の無医村でも医療支援活動を始めた。2000年、干ばつが顕在化したアフガニスタンで「清潔な飲料水と食べ物さえあれば8、9割の人が死なずに済んだ」と、白衣と聴診器を捨て、飲料水とかんがい用の井戸掘りに着手。03年からは「100の診療所より1本の用水路」と、大干ばつで砂漠化した大地でのかんがい用水路建設に乗り出した。パキスタン国境に近いアフガニスタン東部でこれまでに完成した用水路は全長25・5キロ。75万本の木々を植え、3500ヘクタールの耕作地をよみがえらせ、約15万人が暮らせる農地を回復した。総工費16億円は募金でまかなった。
 「僕と憲法9条は同い年。生まれて66年」。冗談を交えつつ始めた憲法談議だったが核心に及ぶと語調を強めた。「憲法は我々の理想です。理想は守るものじゃない。実行すべきものです。この国は憲法を常にないがしろにしてきた。インド洋やイラクへの自衛隊派遣……。国益のためなら武力行使もやむなし、それが正常な国家だなどと政治家は言う。これまで本気で守ろうとしなかった憲法を変えようだなんて。私はこの国に言いたい。憲法を実行せよ、と」
 「実行」という言葉を耳にした瞬間、あざやかな緑の大地の写真が脳裏によみがえった。理想は実行された時、あんなにも力強く人の胸に迫るのだ。
 01年米同時多発テロ後の米英軍の爆撃以降、アフガニスタンでは外国人への憎悪は募るばかりだ。治安が急速に悪化した08年、仲間の日本人男性スタッフが殺害された。政治的な誘拐ではなく金銭目的だった。地域住民は必死に犯人グループから男性を救出しようとしたが、かなわなかった。外国人をターゲットにした誘拐や襲撃は今も増える一方だが、その後、仲間が狙われたことは一度もない。それでも念のため、一時は25人いた日本人スタッフを帰国させ、今は事務職員と2人だけ。現場に出る日本人は中村さん一人だ。
 日本のニュースはもっぱらインターネットで読む。「日本はどうなっているのか」といら立つことが増えた。「この干ばつは戦争どころじゃない。一人でも多く生きて冬を越せるように」と危険な作業に挑み、政府軍と反政府軍の衝突と聞けば工事中の用水路をざんごう代わりに隠れる、そんな厳しい日常から見る祖国の改憲論は「どこか作り物くさい。政治力をアピールしたいだけの芝居のように見える」。
 ならば、中村さんにとって憲法はリアルな存在なのか。身を乗り出し、大きくうなずいた。「欧米人が何人殺された、なんてニュースを聞くたびに思う。なぜその銃口が我々に向けられないのか。どんな山奥のアフガニスタン人でも、広島・長崎の原爆投下を知っている。その後の復興も。一方で、英国やソ連を撃退した経験から『羽振りの良い国は必ず戦争する』と身に染みている。だから『日本は一度の戦争もせずに戦後復興を成し遂げた』と思ってくれている。他国に攻め入らない国の国民であることがどれほど心強いか。アフガニスタンにいると『軍事力があれば我が身を守れる』というのが迷信だと分かる。敵を作らず、平和な信頼関係を築くことが一番の安全保障だと肌身に感じる。単に日本人だから命拾いしたことが何度もあった。憲法9条は日本に暮らす人々が思っている以上に、リアルで大きな力で、僕たちを守ってくれているんです」
 社会主義者でありながら愛国主義者で儒教的な道徳を重んじた父から幼い頃、論語を読まされた。意味も分からず繰り返し唱えた倫理は、後にキリスト教徒となった今も心にある。イスラム教徒たちに囲まれて暮らした29年間でたどりついたのは「宗教は異なっても人が生きる上での倫理はそう変わらない」という実感だ。「道徳や倫理は完璧に守れるものではない。何とか守り、実行しようと努力することが人間を大きな誤りから押しとどめてきた。憲法も同じ。倫理を多数決で変えようなんて筋違い」
 救おうとしてもなお、干ばつ、病気、戦闘で人の命が失われていく国にいるからこそ、日本にいる人より、憲法をリアルに感じられるのかもしれない。
 あなたにとって9条は、と尋ねたら、中村さんは考え込んだ後、「天皇陛下と同様、これがなくては日本だと言えない。近代の歴史を背負う金字塔。しかし同時に『お位牌(いはい)』でもある。私も親類縁者が随分と戦争で死にましたから、一時帰国し、墓参りに行くたびに思うんです。平和憲法は戦闘員200万人、非戦闘員100万人、戦争で亡くなった約300万人の人々の位牌だ、と」。
 窓の外は薄暗い。最後に尋ねた。もしも9条が「改正」されたらどうしますか? 「ちっぽけな国益をカサに軍服を着た自衛隊がアフガニスタンの農村に現れたら、住民の敵意を買います。日本に逃げ帰るのか、あるいは国籍を捨てて、村の人と一緒に仕事を続けるか」。長いため息を一つ。それから静かに淡々と言い添えた。
 「本当に憲法9条が変えられてしまったら……。僕はもう、日本国籍なんかいらないです」。悲しげだけど、揺るがない一言だった。【小国綾子、写真も】

なかむら・てつ
 福岡県生まれ。九州大医学部卒。ペシャワール会現地代表。ピース・ジャパン・メディカル・サービス総院長。2003年マグサイサイ賞。アフガニスタンで1万6500ヘクタールの農地復活を目指す「緑の大地計画」に尽力中。

「憲法9条なくては日本でない」
「豊かさの考え変えないと」
    中村哲さんの言葉
2019年12月4日:毎日新聞

 中村哲さんは、これまで毎日新聞の取材にたびたび応じていた。人道支援や憲法9条の重要性などについて、自身の経験から数多くの言葉を残していた。【安藤いく子】

 「100万発の銃弾より、1本の用水路の方がはるかに治安回復に役立つ。(日本政府は)米欧の軍事行動と一体と見なされない独自の民生支援を長期的に進めるべきだ」(2009年2月、オバマ米大統領=当時=がアフガニスタンへの増派を決めたことを受けての取材で)
 「憲法は我々の理想です。理想は守るものじゃない。実行すべきものです。この国は憲法を常にないがしろにしてきた。インド洋やイラクへの自衛隊派遣……。国益のためなら武力行使もやむなし、それが正常な国家だなどと政治家は言う。私はこの国に言いたい。憲法を実行せよ、と」
 「天皇陛下と同様、これ(憲法9条)がなくては日本だと言えない。近代の歴史を背負う金字塔。しかし同時に『お位牌(いはい)』でもある。私も親類縁者が随分と戦争で死にましたから、一時帰国し、墓参りに行くたびに思うんです。平和憲法は戦闘員200万人、非戦闘員100万人、戦争で亡くなった約300万人の人々の位牌だ、と」(いずれも13年6月、憲法についてのインタビューで)
 「戦争や事件に目が行きがちですが、そこだけつまみ出しても、現場の私たちから見ると真実は伝わっていないと感じます。気候変動の影響で干ばつになり、多くの人々が飢餓にあえぎ、傭兵(ようへい)にもなるという背景がある」
 「(東日本大震災以降の日本は)豊かさの考え方を変えないといけません。無限に経済成長が続くことはありえないのに、多くの人が夢から覚めない。小さなコップの中で議論していて、干ばつや震災、自然の巨大な動きも科学と経済力で何とかなると信じている」(16年9月、歌手の加藤登紀子さんとの対談で)
アフガニスタン支援活動の
中村哲医師ら6人銃撃で死亡
 ダリバンは関与否定
2019年12月4日:ニューズウィーク








アフガニスタン・ナンガラハル州の都市ジャララバードで、非政府組織(NGO)の車が襲撃を受け、
ピースジャパンメディカルサービス(平和医療団日本)総院長の中村哲医師など6人が死亡した。
写真は中村医師が乗っていた車の壊れた窓。
アフガニスタンのジャララバードで撮影(2019年 ロイター/Parwiz)

アフガニスタン東部ナンガルハル州のジャララバードで4日、非政府組織(NGO)の車が銃撃され、ピースジャパンメディカルサービス(平和医療団日本)総院長の中村哲医師ら6人が死亡した。
同州の当局者によると、犯人は逃走し、警察が行方を追っている。
同当局者は「中村氏はアフガニスタンの復興、特に灌漑や農業の分野で多大な貢献をしてきた」と述べるとともに、中村氏が今回の銃撃の標的だったとの見方を示した。
まだ犯行声明は出ていないが、反政府武装勢力「タリバン」の報道担当者は関与を否定した。
中村医師はアフガニスタンで灌漑(かんがい)や農業の復興作業を支援し、同国政府から最近、名誉市民権を授与された。
大統領府報道官は「アフガニスタン政府は、わが国にとって最も偉大な友人である中村医師への凶悪かつ卑劣な攻撃を強く非難する」と表明。「(中村氏は)アフガン国民の生活を変えるために人生を捧げた」と述べた。



銃撃された中村哲医師が生前、
本誌に語っていた夢
「現地では優しくしてもらっている」
2019年12月4日:週刊朝日

 アフガニスタンやパキスタンで人道支援活動に長年取り組んできた中村哲医師(73)が4日、銃撃されて亡くなった。

 現地の報道などによると、中村さんは現地時間4日朝、アフガニスタン東部ナンガルハル州の州都ジャララバードを車で移動中、何者かに襲われ銃弾を受けた。病院に運ばれいったんは回復に向かったが、容体が悪化し息を引き取った。同乗していた運転手や警備員らも死亡したという。

 中村さんは福岡県出身で九州大学医学部卒。「麦と兵隊」「花と龍」などで知られる作家火野葦平のおいでもある。NGO「ペシャワール会」(事務局・福岡市)の現地代表と、ピース・ジャパン・メディカル・サービスの総院長などを務めていた。

 アフガニスタンやパキスタンで30年以上にわたって、医療や農業用水路の建設などに携わってきた。その活動は国際的に評価され、2003年には「アジアのノーベル賞」ともいわれるフィリピンのマグサイサイ賞を受賞。国内でも菊池寛賞やイーハトーブ賞などを受けている。今年10月にはアフガニスタンのガニ大統領から名誉市民証を授与された。

 アフガニスタン大使館はホームページに次のようなコメントを掲載した。

「中村医師はアフガニスタンの偉大な友人であり、その生涯をアフガニスタンの国民の生活を変えるためにささげてくださいました。彼の献身と不断の努力により、灌漑システムが改善され、東アフガニスタンの伝統的農業が変わりました」

 中村さんは9月にいったん帰国し、用水路建設に取り組む現地職員らと農業関連施設を訪れたり、講演会をしたりした。その後、再び現地に入っていた。

 中村さんは1984年にパキスタンでハンセン病などの医療支援を開始。アフガニスタンに活動の場を移し、「飢えや渇きは薬では治せない。100の診療所よりも1本の用水路が必要だ」などとして、水利事業や農業支援に力を入れてきた。

 本誌記者もかつて中村さんを取材したことがある。対テロ戦争の名目で武力行使が続いていることが、アフガニスタンを混乱させていると訴えていた。

「現地は危険だと言われるが、いくら武器を持っていても安全にはなりません。現地の人たちに信頼してもらうことが大切です」
 2008年には「ペシャワール会」の男性が武装グループに殺害される事件も起きた。中村さんは警備員をつけるなど安全確保に注意しつつ、現地の人たちと直接ふれ合うことを続けてきた。

「診療するうちに、待合室で亡くなる貧しい子どもの姿を何人も見てきました。大干ばつに襲われ栄養状態が悪い子どもたちを救うには、医療だけでは足りません。用水路をつくって農業を支援する必要があったのです」

 アフガニスタン東部で「マルワリード用水路」の建設に03年に着手。建設資材の不足などに悩まされながらも、全長25キロ超の用水路を10年に完成させた。「緑の大地計画」としてさらに農地を復活させるべく、活動を続けていたところだった。

 70歳を超え体調も万全ではなかったが、最後まで自ら現地で動くことにこだわった。

「私は日本では邪険にされることもありますが、現地の人たちはとても優しくしてくれます。日本よりもお年寄りを大事にしているからです。あと20年は活動を続けていきたいですね」

 取材では、心配をかけてきた妻や子どもら家族に感謝する言葉もあった。

「帰国した時にお茶漬けを食べたり、風呂に入ったりすると安心します。日本に残して苦労をさせてきた家族に、罪滅ぼしをしたいと思うこともあります」

 妻の尚子さんは4日報道陣に、「今日みたいな日が来ないことだけを祈っていました」と答えたという。

 ペシャワール会は、「事業を継続するのが中村さんの意志でもある」として、人道支援活動を続けていく方針だ。
(本誌・池田正史、多田敏男)
※週刊朝日オンライン限定記事



吉永小百合さん
「本当に残念で、悔しい」中村医師を悼む
2019年12月4日:朝日新聞

 アフガニスタンで人道支援に取り組んできたNGO「ペシャワール会」(事務局・福岡市)の中村哲さん(73)が4日、亡くなった。中村さんの生き方に感銘を受けてきた多くの人たちが、突然の知らせに驚き、悲しんだ。

緒方貞子さんと2人「同時期に失い、大きな損失」

 2009年から1年間、国連アフガニスタン支援ミッションの政務官を務めていた上智大学の東大作教授は、「日本人に好意を持つアフガン人が多いのも、中村医師の活動が広く知られているから。中村さんと一緒に働いた若者はみんな誇りに感じてた」と話す。
 2001年9月11日の米同時多発テロ後、米英軍はアフガニスタンを空爆した。タリバーン勢力は05年ごろから息を吹き返し、08年には国土の7割が「政府ですら危なくて行けない地域」だったという。干ばつも進み、水がなくても育つケシだけに頼るようになり、麻薬産業だけで生きる若者も増えていった。
 「その中で、中村医師は灌漑(かんがい)事業がいかに重要かを、村長、市民、時には反政府勢力を1人ずつ説得し、進めていった。他の人にはまねできないこと」と言う。
 先日は国連難民高等弁務官だった緒方貞子さんが亡くなった。「アフガニスタンをいかに良くすべきか考えていた2人を同時期に失ったことは大きな損失だ」
吉永小百合さん「自分たちができることを」
 ペシャワール会の中村哲医師のアフガニスタンでの活動に共感し、現地の様子を記録したDVDで朗読を担当した俳優の吉永小百合さんが、中村医師の死去を受けて、朝日新聞の取材に対し語った。
    ◇
 中村さんのアフガンでのプロジェクトを応援してきました。どうしてこんなことになったのかという思いです。世界を幸せにしようと思って頑張っていらっしゃる方が、こんな形で命を落とされたことは、本当に残念で、悔しい思いです。私たちは、中村さんの死をしっかりと受け止めて、自分たちができることをやっていかなければならないと改めて思いました。

「医師でありながら医者以上の活動していた」

 アフガニスタンなどで人道支援をしている国際NGO「JEN」(東京都新宿区)の木山啓子事務局長は4日、「あまりにショック」と話した。「世界にとってあまりに大きな損失です」
 木山さんはアフガニスタンやパキスタンなどで、紛争や災害の被害に遭った人々の支援をしており、これまでに在日アフガニスタン大使館で開かれた集いなどで中村さんと会う機会があったという。現地の人々の健康を考えるなら、診察だけではなく、穀物の栽培や灌漑(かんがい)など生活の基盤を支えることが必要で、持続可能な解決策を探ることが大切だと言われた。「支援のあり方を一方的に教えてもらった。私は中村さんのファンのようなもの」と振り返る。
 今年10月に中村さんがアフガニスタンから名誉市民権を授与されると、JENのアフガニスタンスタッフも自分のことのように喜んでいたという。「中村さんは医師でありながら医者以上の活動をしていた。素晴らしい人をこんな形で失うなんて、残念でなりません」

「現地の人が自立して暮らせるよう活動してきた人が…」

 10年以上前にペシャワール会の会員になった秋田県大館市の元高校教員山木敏子さん(72)はテレビのニュースで銃撃事件を知った。「現地の人が自立して暮らせるように活動してきた人が殺されるなんて、ショックとしか言いようがない」と肩を落とした。
 活動に共鳴し、中村さんの活動を紹介するDVD「アフガニスタン 用水路が運ぶ恵みと平和」を地元で上映したり、著書を高校に贈ったりした。本人に会ったことはないが、毎年届く会報でアフガンでの活動を見守ってきた。「中村さんにこそノーベル平和賞をもらってほしかった」と悼んだ。



「生きておれ。病は後で治す」
 中村医師は井戸を掘った
2019年12月5日:朝日新聞

 30年以上、アフガニスタンの復興を支援してきたNGO「ペシャワール会」現地代表の中村哲医師(73)が、道半ばで命を奪われた。医療の枠にとどまらず、農業にも力を尽くし、現地の人たちに感謝されていた中村さん。事件は、悪化する治安に警戒しながら活動する中で起きた。
 中村さんを中心とする「ペシャワール会」は1983年に設立。中村さんは86年にアフガニスタン人を対象にした活動を始め、現地に溶け込んで医療や農業などの支援に取り組み、高く評価されてきた。
 2001年9月の米同時多発テロ後、アフガニスタンでは米軍と武装勢力との戦闘などで治安が悪化。08年8月には同会の伊藤和也さん(当時31)が武装集団に拉致され、殺された。同会は10カ所以上あった診療所の大半を閉め、日本人メンバーを引き揚げた。
「合言葉は『100の診療所より1本の用水路』」――。記事の後半で、中村哲医師が残した言葉を紹介します。
 それでも中村さんは現地に残り、03年に始めた東部クナール川下流域での用水路建設を継続。新たな用水路の建設にも乗り出し、取水堰(せき)や分水路、護岸樹林帯もつくるなど、活動してきた。
 勲章や名誉市民権をガニ大統領から贈られた中村さんは「私たちの試みが多くの人々に希望を与え、少しでも悲劇を緩和し、より大きな規模で国土の回復が行われることを願う」との談話を発表していた。
 死去を受け、アフガニスタンの大統領報道官は「(同国の)偉大な友人、中村医師は、水資源の管理や農法の改善でアフガニスタン人の暮らしを変えるために人生を捧げた。中村医師への凶悪で卑劣な攻撃を強く非難する」とツイートし、功績を評価した。
 国連アフガニスタン支援団もツイートで、中村さんを「最も弱いアフガン人を助けるために人生の大半を捧げた」と指摘。「尊敬を集めた日本人援助関係者が殺害されたことに嫌悪を表明する」とした。
 パキスタンでNGO代表を務める督永忠子さん(75)は、80年代から交流してきたという。「現地に溶け込む努力が一般的なNGOの水準から飛び抜けていた。モスク(イスラム礼拝所)を建ててイスラム教への理解を示し、スタッフの給与も現地の水準を調べ、決してばらまきはしなかった。だから、ほかの団体が撤退する中でも活動を続けられたのだろう」と話す。
 安倍晋三首相は首相官邸で記者団に「医師として医療分野に、また灌漑(かんがい)事業などにおいて大変な貢献をしてこられた。危険で厳しい地域にあって、本当に命がけでさまざまな業績をあげられ、アフガンの人々からも大変な感謝を受けていた。このような形で亡くなったことは本当にショックで、心からご冥福をお祈りしたい」と話した。(渋井玄人、武石英史郎)

周囲に語っていた「あと20年は活動を続ける」

 一報を聞いて福岡市のペシャワール会事務局に駆けつけると、4日付で刷られた会報がテーブルに並んでいた。中村哲さんが決意をつづっていた。「この仕事が新たな世界に通ずることを祈り、真っ白に砕け散るクナール河の、はつらつたる清流を胸に、来たる年も力を尽くしたいと思います」
 初めて取材したのは2001年の米同時多発テロ後、アフガン情勢が緊迫し、日本へ一時帰国した際だった。以来、繰り返しインタビューをさせてもらった。活動のきっかけに話が及ぶと、いつもはにかみながらこう言った。「最初から貧しい人を助けようと思っていたわけではありません」
 少年時代から昆虫が好き。「珍しいチョウが見られるかもしれない」と考え、福岡の山岳会の遠征隊に医師として同行し、1978年にパキスタンのヒンドゥークシ山脈へ。現地では医師が来ていると知った人たちが引きも切らずに訪ねてきた。その場しのぎの薬しか渡せず、「村々で歓迎されると、釈然としないうしろめたさがかえって増した」。その体験が原点となった。
 84年に同国のペシャワルに赴き、ハンセン病の治療に当たる。アフガン難民の一般診療にも取り組むようになり、アフガン国内へと活動の重心を移していった。
 専門は神経内科だったが、現地では医療全般をこなした。2000年にアフガンが大干ばつに襲われ、清潔な水と食糧があれば治る病気でも亡くなる人が急増すると、「とにかく生きておれ。病気は後で治す」と、飲料水確保のための井戸を掘った。
 用水路建設は03年から。土木を独学して図面を描き、自ら重機を運転した。現地の人たちだけでも維持・管理できるようにと、近代的な施設ではなく、伝統的な技法を採用。取水堰(ぜき)は、江戸時代に築かれ、今も使われている山田堰(福岡県朝倉市)をモデルにした。「医学部を卒業したころは、アフガンで河川工事をするとは想像もしませんでした」と、笑っていた。
 長く戦乱が続いたアフガンで「復興は軍事ではなく農業から」との信念のもと、近年は国連機関や国際協力機構(JICA)とも連携し、ノウハウをアフガン全土に広めようと考えていた。昨年には現地に訓練センターを開校。アフガン政府も「中村方式」と呼んで、国の基準として採用すると宣言した。73歳だった中村さんは「あと20年は活動を続ける」と周囲に語っていた。無念さはいかばかりか。(佐々木亮)

悪化するアフガンの治安

 アフガニスタンでは紛争が続き、治安悪化に歯止めがかかっていない。
 東西冷戦下の1970年代から紛争が断続的に続いてきたが、目下の紛争が始まったきっかけは、2001年9月に米国で起きた同時多発テロだ。
 米国はテロを実行した国際テロ組織「アルカイダ」をかくまっているとしてタリバーン政権(当時)への軍事攻撃を開始。約2カ月後にタリバーンは敗れ、政権を追われた。
 ところが、タリバーンは態勢を立て直し、05年ごろから自爆テロを戦術にとり入れ、再びアフガニスタンでの攻勢を強めた。
 劣勢のアフガニスタン政府軍を駐留米軍が後方支援してきたが、米軍の作戦に巻き込まれて死亡する民間人が急増したことで、反米感情が拡大。逆に武装勢力を勢いづかせた。現在ではタリバーンや過激派組織「イスラム国」(IS)の支部組織が国土の半分近くを影響下に置いている。
 国連によると、戦闘やテロに巻き込まれた民間人の死傷者は、14年から5年連続で1万人を超す。今年は9月末までに2563人が死亡した。
 人道支援を続ける援助団体も攻撃対象になってきた。18年1月には、今回事件が起きたジャララバード市内で、国際NGO「セーブ・ザ・チルドレン」の事務所がISの襲撃を受け、職員ら少なくとも6人が死亡。国連によると、今年は8月までに同国内で援助関係者27人が死亡し、31人が負傷、33人が誘拐された。武装勢力は、政府を支える援助団体も敵視している。
 治安混迷を前に各国の援助団体は活動を縮小し、かつて10を超えた日本の団体も大半が撤退した。団体の活動資金となる国際援助も先細っている。
 経済協力開発機構(OECD)によると、アフガニスタンへの国際援助額は17年に計約28億ドル(約3千億円)と5年前から半減。欧米各国が他の紛争地や難民問題に資金を振り向ける中、さらなる援助額の削減は避けられない情勢だ。(バンコク=乗京真知)

中村哲医師の略歴と主な発言

・1946年 福岡市で生まれる
・73年 九州大学医学部を卒業。国内の療養所や病院に勤務
・78年 山岳会遠征隊に同行し、初めてパキスタンを訪問
・83年 ペシャワール会設立
・84年 パキスタンの病院に着任
・87年 アフガン難民キャンプ巡回診療を始める
・90年 「地元の人が何を求めているか、そのために何ができるか、生活習慣や文化を含めて理解しないと。善意の押しつけだけでは失敗します」
・91年 アフガンに診療所開設
・2003年 用水路工事を始める
・08年 現地スタッフの伊藤和也さんが殺害される。「アフガンのために働いたのにアフガン人に殺されたと断罪しないでほしい」
・14年 日本の集団的自衛権の行使容認に「(支援)活動はこれまでになく危険になる」と懸念
・16年 朝日新聞のインタビューで、灌漑(かんがい)事業中心の活動について「合言葉は『100の診療所より1本の用水路』」
・19年10月 アフガン大統領が名誉市民権を授与。「私たちの試みが多くの人々に希望を与え、少しでも悲劇を緩和し、より大きな規模で国土の回復が行われることを願う」

アフガニスタン紛争をめぐる動きとペシャワール会

1983年9月 ペシャワール会設立
2001年9月 国際テロ組織アルカイダによる米同時多発テロ
     10月 アルカイダ指導者のビンラディン容疑者をかくまっているとして米などが空爆開始
     12月 タリバーン政権崩壊
2005年ごろ タリバーンが自爆テロで勢いを取り戻す
2008年8月 ペシャワール会メンバーの伊藤和也さんが現地で殺害される
2011年5月 米軍がビンラディン容疑者を殺害
2014年5月 オバマ米大統領(当時)が16年末までの米軍撤退を発表
2015年10月 オバマ氏が米軍の撤退計画を見直し
2017年8月 トランプ米大統領が米軍を増派し、空爆強化
2018年7月 トランプ政権が米軍撤退を目指してタリバーンと和平協議開始
2019年9月 米国とタリバーンが和平をめぐり1日までに基本合意。その後、いったん決裂したが、11月にトランプ氏が和平協議再開を表明



「アフガンの偉大な友人」
 現地は中村医師の貢献に感謝、事件非難
2019年12月5日:産経新聞

 「アフガニスタンの偉大な友人」-。福岡市の非政府組織(NGO)「ペシャワール会」現地代表の医師、中村哲医師が銃撃され死亡したことを受け、アフガンの首都カブールでは市民から悲しむ声が上がった。ツイッターには中村さんの貢献に感謝するメッセージがあふれ、事件を非難する投稿も目立った。
 カブールで中村医師を知る人は多く、30代の男性、ムシュタク・ラヒムさんは「中村さんは不毛な土地を耕作可能な土地に生まれ変わらせた。アフガンのために尽力してくれたのに殺害され、私の良心は泣いている」と悲しんだ。
 事件を伝えるニュースを転載する投稿も多く、自分のプロフィル写真を中村さんの写真にしたり、日本語で投稿したりする人も。「今日はアフガニスタンの暗黒の日」「なんと悲劇的な日なんだ」と記し、事件を強く批判していた。(共同)
4日、アフガニスタン東部ナンガルハル州ジャララバードで銃撃され、
死亡した中村哲医師を追悼する人々(ロイター=共同)


中村哲医師、
アフガニスタンで銃撃され死亡
 現地で井戸を建設
2019年12月5日:BBC
アフガニスタンで長年、現地住民の生活環境の改善に尽くした日本人医師の中村哲さん(73)が4日、現地で銃撃され死亡した。
当局者らによると、中村さんはこの日朝、アフガニスタン東部ジャララバードを車で移動していたところ銃撃を受けたという。灌漑(かんがい)用水事業の進行を確認していたとされる。
AFP通信が当局者の話として伝えたところでは、中村さんは右胸付近を撃たれた。ジャララバード空港から首都カブール近郊の病院に運ばれる途中、死亡が確認された。
中村さんのほか、5人のアフガニスタン人も死亡した。ナンガルハル州知事の報道官によると、うち3人は警備員で、1人は運転手、もう1人は同僚だという。
犯行声明は出ていない。襲撃の狙いも不明。


ロイター通信は、地元議員の話として、犯人たちは逃げたと伝えた。
現場写真では、白色のピックアップトラックのフロントガラスに、少なくとも3発の銃弾の痕が残っているのが確認できる。

10月には名誉市民の称号

中村さんは、アフガニスタンで井戸の建設などに取り組む非政府組織(NGO)「ペシャワール会」を率いていた。
長年の人道支援が評価され、10月にはアフガニスタン政府から、名誉市民の称号が贈られていた。
安倍晋三首相は4日、記者団に「本当にショックだ。ご冥福をお祈りしたい」と語った。
一方、カブールの米国大使館は、「支援者は標的ではない」として、今回の襲撃を非難した。
ただ、今回のような襲撃はアフガニスタンではよく起きている。
先週も、同国の国連機関で働いていた米国人が、国連の車両を狙った爆破に巻き込まれて死亡した。
BBCのまとめでは、アフガニスタンでは今年8月、毎日平均74人が殺害されていた。男性、女性、それに子どもも含まれていた。
ペシャワール会では2008年、農業支援スタッフの伊藤和也さん(31)が武装集団に拉致され、現地運転手と共に遺体で見つかった。

アジアのノーベル賞に輝く

中村さんは1946年、福岡市生まれ。日本で医師となった。1984年にパキスタンへ移り、ハンセン病患者の治療に当たった。
2年後にはアフガニスタンへ渡り、ナンガルハル州に最初の診療所を開設。また、非政府組織(NGO)「ピース・ジャパン・メディカルサービス」(PMS)を設立した。
PMSは一時、アフガニスタン国内10カ所に診療所を開設し、ハンセン病患者や難民を救援していた。
中村さんはまた、清潔な水がなくコレラなどの感染症に苦しむ人々のため、井戸や灌漑(かんがい)設備の設置にも力を入れた。
2003年には、アジアのノーベル賞とも呼ばれるマグサイサイ賞を受賞した。

2014年に日系英字メディア「ジャパン・タイムズ」の取材に応じた中村さんは、安全を確保するために毎日、異なるルートで仕事に出かけていると話していた。
一方で、安全対策として最善なのは「誰とでも友人になること」だと語った。
「敵を作らないようにしています。(中略)たとえ信念がないと思われようと、最も良いのは誰とでも友人になることです。私がここで頼りにできるのは人間だけですから」
「そしてこれが、銃を持ち歩くよりも効果的なんです」

続々と哀悼の声

アフガニスタンでは、多くの人が中村さんの死を悼んでいる。
駐アフガニスタン・オランダ大使のエルンスト・ヌーマン氏は、中村さん殺害は「無分別な行為」だと述べると共に、中村さんは「アフガニスタンの平和と発展」に命を捧げていたと話した。
また、アフガニスタンのセディク・セディッキ大統領報道官もツイッターで、「(中村さんは)アフガニスタン国民の生活を変えることに一生を捧げた」と哀悼の意を表した。
あるツイッターユーザーは、「彼は日本からはるばるアフガニスタンにやってきて、貧しい人々に飲み水と農業用水をくれた」と語った。
「きょう、アフガニスタンは真の英雄、真の奉職者を失った。彼はアフガニスタンの弱い立場の人々の治療に人生を捧げた」という投稿もあった。
(英語記事 Japanese 'hero' among six dead in Afghan attack )



中村哲さん銃撃後「誰も生きていないな」
武装集団4人前後、計画的犯行か
2019年12月5日:毎日新聞

4日、アフガニスタン東部ナンガルハル州ジャララバードで銃撃され、
死亡した中村哲さんを追悼する人たち=ロイター共同

 アフガニスタン東部ナンガルハル州で福岡市の非政府組織(NGO)「ペシャワール会」現地代表の中村哲さん(73)が殺害された事件で、中村さんを襲った武装集団は男4人前後で、銃撃後に「誰も生きていないな」と話し、全員が死亡したかどうか確認していたことが5日、目撃者への取材で分かった。


用水路工事の指揮を執る「ペシャワール会」の中村哲さん
=アフガニスタン東部のガンベリ砂漠で2008年6月、共同

 男らは中村さんの車を待ち伏せしており、通行ルートを事前に確認した上で、強い殺意を持って襲撃した計画的犯行の疑いが強まった。犯行声明は出ていないが、ロイター通信は事業に関して中村さんが標的になっていた可能性があると伝えた。
 目撃した現地の男性によると、男らは2台の車に分乗して現場近くのレストランにやって来た。中村さんの車がレストランに近づくと、男らは駆け寄って車の両側から銃撃を始め、最初にボディーガードを殺害した。男性は、男の一人から「こちらに来るな」と怒鳴りつけられ、レストラン内に隠れた。
 銃声がいったん途絶えると中村さんらの生死を確認する声が聞こえ、その後、さらに複数回の銃声が聞こえた。男らは「終わった。行くぞ」と話し、車で去った。男らはスカーフなどで顔を覆っておらず、アフガンで一般的な民族衣装「シャルワル・カミーズ」を着用していたという。
 ナンガルハル州では反政府武装勢力タリバンなどが活動している。過激派組織「イスラム国」(IS)も活動していたが、ガニ大統領は11月、同州でのISの「壊滅」を宣言。今月1日までの1カ月でIS戦闘員や家族ら1000人以上が政府に投降し、弱体化が指摘されていた。(共同)

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