「ご都合」から、「デタラメ」への結節点の政治家、中曽根が死んだ

「大勲位」とあだ名された中曽根康弘が死んだ。
1982~87年の5年間、日本国首相を務めた中曽根康弘だ。
ボクが教員になって3年後に総理となったことになる。ボクは当時「粒の小さな政治家」という印象を持った。その後、口先、パフォーマンスの政治を繰り広げ、首相の座にしがみつき、自らの総裁任期を特例として1年延長したことは、安倍晋三と類似している。
カレの悪徳の最たるものは、国鉄解体民営化だ。その手法は、国鉄労働組合(国労)を敵役に仮想して、組合つぶしを平然と進めたことにある。このとき、多くの国鉄労働者が命を絶ち、さらに多くの労働者の人生が狂わされた。「巨悪」の人でもある。
自民党歴代首相は、この人物を境に、大きく性格を変えたように思う。それまでの吉田茂、池田隼人、岸信介、佐藤栄作、田中角栄などは「ご都合」の政治をすすめたが、中曽根康博は、小泉純一郎、安倍晋三へとつながる「でたらめ」な政治への転換点に位置する政治家だ。カレが為したことによる、日本分断の傷は、今、大きな裂傷となってこの国の「命」に関わる事態を招来している。


中曽根康弘元首相死去
 101歳 改憲提唱、国鉄民営化
2019年11月29日:東京新聞


 安倍、佐藤、吉田、小泉各内閣に次ぐ戦後第五位の長期政権を担い「戦後政治の総決算」を掲げて国鉄(現JR各社)の分割・民営化を実現した元首相の中曽根康弘(なかそねやすひろ)氏が死去したことが二十九日、分かった。百一歳。群馬県出身。関係者によると、二十九日午前七時すぎ、東京都内の病院で亡くなった。
     ◇
 旧東京帝大卒。内務官僚、海軍主計科士官を経て一九四七年、戦後第二回の衆院選で初当選。二〇〇三年に引退するまで連続二十回当選、在職五十六年に達した。
 岸信介改造内閣で科学技術庁長官として初入閣。自民党内で頭角を現し河野派分裂後は中曽根派を形成し一派を率いる。
 一九八二年、鈴木善幸首相退陣後の党総裁選では、党員の予備選で圧倒的な得票を得て総裁の地位を獲得、首相に就任した。行革推進と「戦後政治の総決算」を掲げ、八七年までの長期政権を築いた。ただ、政権発足当初は、閣僚、党役員に当時の田中派の有力議員を大量に採用して「田中曽根内閣」「直角内閣」などとやゆされた。
 日米関係では、ロナルド・レーガン大統領との間に親密な「ロン・ヤス」関係を築き、「不沈空母」発言などにより米国の信頼を得て日米安全保障体制を強化した。
 内政では、専売公社、国鉄、電電公社の三公社民営化を断行。「死んだふり解散」による八六年の衆参同日選挙では衆院で三百議席を超える圧勝を収め、自民党で初の総裁三選を果たした。
 その後、選挙中に導入しないと宣言していた売上税を導入しようとして支持率を落とすも同税撤回で復活し、八七年十一月、余力を残して退任。ニューリーダー三氏の中から、竹下登氏を後継に指名(中曽根裁定)した。
 退任後はリクルート事件でいったん離党するも復党。衆院小選挙区比例代表並立制導入に当たっては比例代表での終身一位の保証を受ける。二〇〇三年、衆院比例代表への党の定年制導入に伴い、当時の小泉純一郎首相の説得を渋々受け入れ、同年の衆院選出馬を断念し引退した。
 「自主憲法制定」をライフワークとして、以後も党新憲法起草委員会の前文小委員長を務めたり、小泉元首相が推し進める郵政民営化や靖国神社参拝などに異議を唱えるなど、非議員としての政治活動を続けた。
 首相時代は、その変節ぶりから「風見鶏」とも言われたが、一九九七年に大勲位菊花大綬章を受けたことで、政界、とりわけ自民党内では象徴的な存在ともなった。
 元外相の中曽根弘文参院議員は長男。



「保守傍流」から首相に
「総決算」目指すも靖国、
憲法改正は残したまま
2019年11月29日:毎日新聞

首相として戦後初めて靖国神社を公式参拝する中曽根康弘氏(中央)=1985年8月15日

 中曽根康弘元首相は1905年5月27日の日本海海戦の13年後の同日に生まれ、後に海軍に入る。軽武装・経済重点主義の「保守本流」の田中角栄氏や池田勇人氏と異なる「保守傍流」から首相の座に上り詰めた。若いころから首相を目指したが就任は82年。47年当選同期の田中氏(就任72年)や49年当選の池田(同60年)、佐藤栄作(同64年)の両氏より遅かった。

「青年将校」と呼ばれ

 「自主憲法制定」を訴えて「青年将校」と呼ばれ、早くから注目を集めた。66年設立の中曽根派(新政同志会)は小派閥。大勢に順応する姿勢は、鶏をかたどった風向計になぞらえ「風見鶏」とやゆされた。中曽根氏は後に「風の方向が分からないで船を進めることはできない」と切り返した。
 70年代には三木武夫、田中、大平正芳、福田赳夫各氏とともに「三角大福中」として次のリーダーの一人と目された。当時は派閥政治の全盛期。中曽根氏は闘争の中で力をつけ、82年の自民党総裁予備選で、主流派の田中派や鈴木派の支持を取り付けて2位の河本敏夫経済企画庁長官らを圧倒した。公明党の山口那津男代表は29日の党会合で「大きくはない派閥を率いて総理になったのは並大抵のことではない」と指摘した。
 その後の党人事では、田中派の二階堂進幹事長を留任させ、組閣では官房長官に後藤田正晴氏、蔵相に竹下登氏など同派から6人を起用。「田中曽根内閣」「角影内閣」などと皮肉られた。

「死んだふり解散」で大勝

 しかし2期4年の総裁任期終了が近づいた86年6月、奇襲的な衆院解散を断行。「死んだふり解散」による衆参同日選に臨み、300議席を超える大勝を果たし、異例の党総裁任期の1年延長を勝ち取った。
 この時初当選した自民党の石破茂元幹事長には、鮮明に脳裏に残る場面がある。両院議員総会で登壇した中曽根氏は「もう1年やることになりました。しかし『待合室』も混んでいるようなので1年しかやりません」。竹下氏のほか安倍晋三首相の父の晋太郎元外相、宮沢喜一元首相が「安竹宮」として控えていた。約束通り1年後に竹下氏を後継指名して影響力を残して道を譲った。石破氏は「ものすごく政治に緊張感があった。長期政権であるが故に緊張感が失われる、というのは違う」と語る。

「命の限り 蟬しぐれ」俳句で締めくくり

 97年には生前受章では最高位の大勲位菊花大綬章を受章し、「大勲位」と称されるようになる。だが政治家人生は突然終わりを迎えた。衆院比例代表の「終身1位」を約束されていたが、2003年10月、小泉純一郎首相が比例代表への73歳定年制を適用。当時85歳だった中曽根氏に対する引退勧告だ。この時、事務所を訪れて「高い見地から党をご指導いただきたい」と引退を迫ったのは当時幹事長の安倍晋三首相。首相はその後、この時に中曽根氏の「君も貧乏くじを引いたな」との一言に救われた、と語っている。中曽根氏は「承服できない」と抵抗したが受け入れられず、その後の会見を自作の俳句で締めくくった。「暮れてなお 命の限り 蟬(せみ)しぐれ」
 引退後も国際社会の重要課題について内外に広く発信する「世界平和研究所」や、超党派の「新憲法制定議員同盟」などで精力的な言論活動を続けた。【立野将弘】

旧日本軍の侵攻「まぎれもない侵略行為」と指摘

 中曽根康弘元首相が「戦後政治の総決算」を掲げたのは、連合国軍総司令部(GHQ)占領下でできた「戦後体制」を改めるという問題意識からだ。だが、それを体現した1985年8月15日の初の靖国神社への公式参拝は、中国の反発を招き、今日まで靖国参拝が国際問題化し続けるきっかけとなった。首相在任時は持論の憲法改正を封印したが、改憲は現在も政治課題として積み残されている。
 中曽根氏は首相就任後の84年、私的懇談会を設置し、公式参拝のあり方を探った。それまで終戦の日の首相参拝は、75年の三木武夫元首相による「私的」参拝以降、公私をあいまいにした参拝が続いた。だが、元軍人で戦死した弟も靖国に合祀(ごうし)された中曽根氏は、公式参拝にこだわった。
 論点は、戦後の極東国際軍事裁判(東京裁判)で裁かれたA級戦犯が合祀された歴史認識問題と、戦後に制定された憲法の政教分離だった。懇談会は玉串奉納や二礼二拍手一礼などの神道式をやめる方式を提言。中曽根氏はそれを踏まえ公式参拝に踏み切った。
 だが、中国国内の激しい反発を招き、当時、親密な関係を築いた中国共産党の胡耀邦総書記の政権基盤もゆるがせた。中曽根氏は翌年、「アジア諸国の感情を考えた」と参拝を見送った。
 中曽根氏は2015年8月の毎日新聞への寄稿で、旧日本軍の中国や東南アジアなどへの侵攻を「まぎれもない侵略行為」と指摘し、首相就任中も「太平洋戦争は間違った戦争」と一貫して主張した。公式参拝に対するアジアの反発は一貫して中国などとの関係回復に力を注いだ中曽根氏にとって誤算で、その後の首相の「私的参拝」も難しくした。
 初当選以来、「自主憲法制定」を掲げた中曽根氏だが、首相就任直後の83年1月、「憲法改正を政治日程に乗せることはしない」と明言した。後に「池田(勇人)首相が『憲法改正の議論はしない』と言って以来、首相はそう言わざるを得なくなった」と回想している。退任後は05年の自民党新憲法草案策定の際に前文の試案を提案。今年5月の改憲派集会に「真に国民による国民のための憲法を制定すべき時だ」とメッセージを送るなど改憲への意欲は晩年まで衰えなかった。
 菅義偉官房長官は29日の記者会見で「憲法改正に向けて長年にわたり尽力され、与野党問わず真剣に議論を進めることを訴えてこられた」と述べた。【野口武則】



中曽根氏の視座には常に「国家」が
 退いてもなお存在感
2019年11月29日:朝日新聞

評伝 元朝日新聞社コラムニスト・早野透

 中曽根康弘氏の101年の生涯の夢は「憲法改正」だった。自民党が結党50年で「新憲法草案」をつくったとき「よくぞここまできた」と感慨深げだった。
 彼の世代の原体験は、戦前の旧制高校のロマンと戦争の悲惨さである。放歌高吟、高下駄(たかげた)の青春に読んだカントの「天上の星、内なる道徳律」を年を重ねても折々語る青臭さ。だが、時代は「大東亜戦争」に突き進んで東大から海軍エリートとなって南方の戦場で部下の亡骸(なきがら)を焼く。
 「敗戦は民族の恥」と感じた27歳の中曽根氏が矛先を向けたのは国家指導者のだらしなさである。「赤旗と戦う」ため内務省の退職金で買った「白い」自転車に乗って衆院選挙に打って出る。56年7カ月の衆院議員、5年の首相を務めた稀有(けう)の戦後政治家の脳裏にあったのは、常に「国家」であり「国家再建」だった。

 平和民主の名の下に
 占領憲法強制し
 祖国の解体計りたり

 若き中曽根氏は「憲法改正の歌」を作詞したほどだったけれども、戦後の「平和民主」はことのほか民衆に定着した。「そこには戦前の官憲の圧力に懲りた民衆の悲哀がある」と気づかされた中曽根氏は、憲法改正は長期戦略として考えるようになる。
 自民党戦国史といわれた派閥抗争はなやかな時代、「風見鶏」とあだ名された世渡りのうまさを発揮し、ロッキード事件で児玉誉士夫との関係をとりざたされて傷を負いながらも、「闇将軍」田中角栄に支えられながらついに首相となる。青年のころから俳句をたしなんだ中曽根氏のそのときの心境の句。
 はるけくも来つるものかな萩の原
 レーガン米大統領との蜜月、米軍事戦略との協力、国鉄民営化。「大統領的首相」をめざした中曽根政権は、後の小泉純一郎「改革」政権の先駆的時代だったといえるだろう。ただ、靖国神社参拝では中曽根氏は中国の反発に配慮して公式参拝を1度で取りやめた。「国益」重視か、個人の「情念」か、やはり中曽根氏の視座には常に「国家」がある。
 首相を退いた後も中曽根氏は日本政治で存在感を失わなかった。リクルート事件への関与でも世間を騒がせ、「汚職とか腐敗は民主主義の風邪のようなもの」という政治倫理観を語っている。小泉首相から議員引退を迫られて「政治テロだ」と怒ったりもした。靖国神社についてはA級戦犯の分祀(ぶんし)を主張して、晩年は単に回帰派ではない意外な開明性もみせた。
 毎年5月27日の中曽根氏の誕生日には日本の右派人脈を集める求心力を持ち続けた。中曽根氏にとって政治はロマンだった。「国家」こそロマンの核だった。彼の政治人生は「改憲」ロマンの物語だった。
 暮れてなほ命の限り蟬(せみ)しぐれ
 中曽根氏自身のこの句は、彼の人生を描いて不足がない。
     ◇
 はやの・とおる 1945年生まれ、神奈川県出身。68年に朝日新聞に入社し、74年に政治部。編集委員、コラムニストを務め、自民党政権を中心に歴代政権を取材。2010年3月に退社し、同年4月から16年3月まで桜美林大学教授。



中曽根元首相、死去 国鉄改革、
労組を標的 生前取材に狙い明かす
2019年11月30日:東京新聞

1986年10月、国鉄の分割・民営化に絶対反対を叫び、会場前で気勢をあげる組合員たち
=静岡県修善寺町の修善寺町総合会館で

 「戦後政治の総決算」を掲げて国鉄の分割・民営化に取り組み、二十九日に死去した中曽根康弘元首相は二〇一六年、ジャーナリスト牧久(まきひさし)氏のインタビューに「戦後の労働組合の運動に歯止めをかけるのが目的だった」と話していた。国鉄改革を長年取材してきた牧氏は、近代国家への道筋をつけた一方、労組の弱体化を招いた側面もあったと振り返る。
 一九七〇年代以降、国鉄では労組の運動が激化し、首都圏の鉄道で大規模なストが頻発するなど混乱が生じた。牧氏は中曽根氏の発言の背景について「日米安保への反対運動など過去にあったような大規模な市民運動につながりかねないと懸念したのではないか」と推し量る。
 政府の重要施策の一つ「働き方改革」の議論にも労組弱体化の影響があると指摘し、「本来は政権ではなく労組側から働き掛けるべきものではないのか。労組の在り方が問われている」と話す。
 国鉄は一九八七年に分割・民営化され、JR旅客六社と貨物一社に分かれた。JR各社で社長を務めた松田昌士、葛西敬之、井手正敬各氏が「改革三人組」と呼ばれ、けん引役となった。
 中曽根氏が亡くなった二十九日、牧氏はJR西日本元相談役の井手氏らと会食した。牧氏によると、井手氏は「中曽根さんがいなければ国鉄改革は達成できなかった」と語ったという。牧氏も同じ思いを抱きつつ「社会の混乱を抑える手段だったのかもしれないが、その手法がよかったのかどうかはまだ結論が出ていない」と述懐した。


中曽根元首相 死去 風見鶏 政敵と連携
2019年11月30日:東京新聞

 中曽根康弘元首相は、対米追従を批判し、憲法改正の旗を掲げて宰相の座に就きながら、在任中は改憲議論に手を付けなかった。「現実主義者」「風見鶏」と評価は分かれるが、政界引退後も改憲にこだわり続けた。有識者の諮問会議を活用して政策を実現させるなど、現在の官邸主導政治に通じる手法も採った。
 ▼青年将校
 「戦争に負けて、連合国軍総司令部(GHQ)の占領を目の当たりにして『日本を本当の主権国家にしないといけない』という気持ちで国会議員になった」。元秘書の岩井均群馬県議は中曽根氏の原点をこう振り返る。
 「軽武装、経済重視」を掲げてGHQに従う吉田茂元首相に反発。改憲や自衛軍創設を主張し、「青年将校」と称された。「この憲法のある限り 無条件降伏続くなり」。一九五六年に作詞した「憲法改正の歌」に自らの思いを込めた。
 しかし、八二年に首相に就くと一変する。「現内閣で憲法改正を政治日程にのせる考えはない」。護憲派が強かった当時の国会情勢を踏まえ、持論の改憲を封印。自身が批判した吉田元首相と同様、対米重視にかじを切り、改憲派に失望感が広がった。
 「ロン」「ヤス」。米国のレーガン元大統領とは愛称で呼び合う仲に。対米の武器輸出三原則の緩和や防衛費GNP(国民総生産)1%枠を取り払い、安全保障分野を中心に同盟関係を強めた。「日本列島を不沈空母のように強力に防衛」するとの発言が報じられ、物議を醸したのもこの年だ。
 ▼現実的
 国政では諮問会議などを設置し、有識者の助言を積極活用する「ブレーン政治」を実行。国鉄や電電公社などの民営化につながった。
 中央大の服部龍二教授(日本政治外交史)は「官邸主導政治のルーツの一つだ。トップダウンの大統領的首相を実現したが、結論ありきの審議会も少なくなく国会軽視とも言えた」と分析する。
 中曽根氏は「戦後政治の総決算」として、八四年には臨時教育審議会(臨教審)を設置し、教育改革に乗り出す方針も示したが、自民党文教族と文部省(当時)の反発を受け頓挫した。翌八五年には戦後の首相として初めて靖国神社を公式参拝。「憲法に反しない範囲」と主張したものの、翌年からは自粛した。
 ▼力学
 首相の座を退いた後も、政界に強い影響力を持ちつつ、二〇〇三年に小泉純一郎元首相による「七十三歳定年制」で政界を引退。それでも改憲の必要性を訴え続け、〇五年に自民党の新憲法草案の前文素案を自らとりまとめた。服部教授は「中曽根氏は晩年『改憲を諦めたことは一度もない』と語っていた。終生、改憲への執念を持ち続けた」と話した。



【主張】
中曽根元首相死去 指導力発揮の政治貫いた
2019年11月30日:産経新聞

 中曽根康弘元首相が、101歳で死去した。
 国家を忌避しがちな戦後の風潮に阿(おもね)らず、安全保障の確保や自主憲法制定の運動、国民経済の発展に取り組んだ。国家国民に尽くした中曽根氏が不帰の客となったことに哀悼の意を表したい。
 東西冷戦たけなわの昭和57年11月、「戦後政治の総決算」を掲げて首相になった。約5年の在任中、内政では多くの抵抗を排して、国鉄の分割民営化や電電公社、専売公社などの民営化を実現した。経済や国民の暮らしを伸ばす意義があった。
 それでも中曽根政治の真骨頂は外交安全保障にある。戦後の無責任な一国平和主義の是正は、中曽根内閣から始まった。
 前任の鈴木善幸首相が日米同盟について「軍事的意味合いは持っていない」と語り、米国との関係がぎくしゃくしていた中で首相に登板した。ソ連に厳しい姿勢で臨んだレーガン米大統領やサッチャー英首相と緊密に連携した。
 日米同盟を重視し、防衛費の国民総生産(GNP)1%枠撤廃など防衛力充実に動き、それが軍事バランスを西側有利につなげた。冷戦終結に寄与したのである。
 当時、米ソの中距離核戦力(INF)削減交渉で、ソ連の中距離弾道ミサイルSS20の「欧州全廃、アジア半減」案が有力だった。中曽根氏は地域で米国の核抑止力が弱まると危惧し、「ロン、ヤス」と呼び合う関係を築いたレーガン氏に要請してアジア全廃も実現させた。日本の安全保障を重視する中曽根氏の行動がINF全廃条約に結びついた。
 指導力を発揮してリアリズムに基づき日本の平和、安全保障を追求し、冷戦終結や核軍縮に貢献した。戦後日本の首相が世界の有力リーダーに名を連ねたのは、中曽根氏が最初である。
 内務省入省直後に志願して海軍主計士官となり、先の大戦で生死の境をくぐった経験が生きた面があるのだろう。ただし、中韓両国や国内左派勢力の批判を浴びて、靖国神社参拝を定着させられなかったのは残念だった。
 衆院連続当選20回を数えた中曽根氏が、今の政治家とは比べものにならないほど勉強家だったことはもっと広く知られていい。晩年まで憲法改正運動に熱心に取り組んだ。国益を常に考え、真剣に政治に当たった姿勢を、後輩政治家は見習ってもらいたい。



中曽根氏死去 戦後史に刻む「大統領的」首相
2019年11月30日:読売新聞

 戦後政治史に刻まれる一時代を築き、強いリーダーとして内政、外交の両面で確かな足跡を残したと言えよう。
 1982年11月から5年間、首相を務めた中曽根康弘氏が死去した。101歳だった。首相としての在職日数は、戦後5番目に長い1806日に及ぶ。
 中曽根氏は47年の衆院選で初当選した。若手の頃は、吉田首相を厳しく批判し、「青年将校」と呼ばれた。岸内閣で初入閣して以降、要職を歴任した。
 66年に中曽根派を結成し、自民党の実力者5人を称した「三角大福中」の一角を占めるようになった。82年に田中派の協力を得て、首相の座を射止めた。
 政権運営で特筆すべきは、「戦後政治の総決算」を掲げ、多くの改革を成し遂げたことだろう。
 内政では「聖域なき行財政改革」に取り組み、国鉄、電信電話、専売の3公社の民営化を断行した。トップダウンの手法で政策を決定しつつ、時に民間の有識者も活用した。大統領的な手法はその後、多くの政権が踏襲している。
 外交面で、今日に至る強固な日米同盟の礎を築いた功績は大きい。首相就任当初から「日米は運命共同体」と強調し、当時のソ連に対して、日米が共同歩調を取る姿勢を鮮明にした。
 ロナルド・レーガン米大統領とは親密な関係を築いた。「ロン」「ヤス」と日米首脳がファーストネームで呼び合うようになったのも、この頃からである。
 三木内閣が定めた防衛費の「国民総生産(GNP)比1%枠」を取り払い、防衛力の強化に努めたことも注目されよう。
 中曽根氏は86年、いわゆる「死んだふり解散」で衆参同日選挙に臨み、衆院で300議席を超える大勝を果たした。この結果、自民党総裁の任期が1年延長された。長期政権の最終盤では、教育改革に力を注いだ。
 2003年まで議員を続け、当選回数は20回を数えた。会長を務めた世界平和研究所で政策提言を重ね、憲法改正に情熱を傾けた。18年に発表した政策論集では、政府に安全保障のコストを積極的に分担するよう求めていた。
 初当選の頃から首相を目指し、政策やアイデアを大学ノートに書きつづった。これが政権構想の土台となった。確固とした信念を持ち、政策の実現を目指した。
 「政治家とは歴史という名の法廷で裁かれる被告である」が口癖だった。多くの議員にかみしめてもらいたい至言である。



中曽根元首相が死去
 戦後政治の針路を変えた
2019年11月30日:毎日新聞

 中曽根康弘元首相が101歳で死去した。敗戦を機に官僚から政治の世界に身を投じた。戦後保守政治の最後の生き証人だった。
 1982年に首相に就いた。日本は当時世界第2位の経済大国となり、戦後のピークに立っていた。だが、政権発足に際して「戦後政治の総決算」のスローガンを掲げた。
 内政では、行政、税制、教育の3改革を目指した。このうち、行革で大きな成果を残した。
 なかでも、特筆すべきは国鉄改革だ。累積債務が37兆円を超え、国の財政を圧迫する大きな元凶だった。
 官主導のシステムは戦後三十数年を過ぎ、行政の肥大化という問題を招来した。改革は時代の要請でもあった。米国や英国では、民間の自由な活力に任せて経済成長を促す「新自由主義」が潮流になっていた。
 不動産バブルへの道を開いたとの指摘もあるが、民間活力重視の流れは、小泉純一郎、安倍晋三両内閣の経済政策に引き継がれている。
 47年に衆院議員に初当選した中曽根氏は吉田茂元首相を批判する急先鋒(せんぽう)だった。吉田氏の政策が米国に依存しすぎると判断したからだ。
 保守本流の吉田氏に対し、中曽根氏は自らを「革新保守」と規定した。それが首相として、単に経済大国であることをよしとせず、安全保障を含む国際的な役割の拡充を模索することにつながった。
 米国への武器技術供与を「武器輸出三原則」の例外扱いとし、日本列島を旧ソ連に対抗する「不沈空母」になぞらえ物議を醸したのもこうした模索の一例だろう。従来、「対米従属」を批判していたが、レーガン大統領との間で「ロン・ヤス」関係を築くことにも成功した。
 一方で、85年8月15日には、靖国神社を初めて公式参拝した。しかし、中国などの猛反発に配慮し、翌年以降は参拝を見送った。
 戦後占領政策から主体性を回復するとして、憲法改正を早くから掲げ、「青年将校」などと呼ばれることもあった。だが、首相在任中はその時にあらずとして無理押しをしない柔軟性も見せた。
 政治の生の変化に対応する姿勢は時に「風見鶏」と皮肉られたが、戦後政治に対し、新たな針路をもたらしたのは確かだ。



クローズアップ
中曽根氏死去 官邸主導の始まり
2019年11月30日:毎日新聞

 中曽根康弘元首相が29日に死去した。大正、昭和、平成、令和の4代を生き抜き、首相在任中の5年間には、現在も続く首相官邸主導の政治、民間重視の経済政策、日米同盟重視の外交・安全保障政策の方向性を鮮明にさせた。原子力の平和利用は首相就任前から積極的に進めた。昭和後期から進む流れの「総決算」は、令和で必要となるのか。中曽根政治が残したものを振り返った。
行革推進、「弱者」生む
 少数派閥で党内基盤が弱い中曽根氏が「総決算」のために採用したのが、担当閣僚や党幹部に直接指示する手法。中曽根氏は「指令政治(ディレクティブ・ポリティクス)」と呼んだ。
 優先課題は、民間活力重視の経済構造を目指す「中曽根行革」。当時の3公社(国鉄、電電公社、専売公社)は税金の無駄遣いが指摘されて批判が強く、民営化で世論の支持を得ようと図った。大島理森衆院議長は記者団の取材に「やり遂げるためにさまざまな、あっと驚く『技』を使った」と語った。
 中曽根氏と親交があったウシオ電機の牛尾治朗会長は29日、「日本がやるべき改革を実行に移したリーダーだった」と毎日新聞の電話取材に振り返った。演出家で劇団四季代表だった故浅利慶太氏を交えて食事した際は常に日本の針路が話題となり、当時の中曽根氏は「米国の変化に強い関心を持っていた」という。
 1980年代の米国ではレーガン政権下で「小さな政府」を目指す改革が進み、英国でもサッチャー政権が非効率な行政機構を問題視した。日本でも81年に鈴木善幸内閣で行財政改革の諮問機関「第2次臨時行政調査会」(臨調)が発足。特に注目されたのが、巨額債務を抱えながらストライキが頻発していた国鉄だ。
 83年に、臨調トップで元経団連会長の土光敏夫氏が最終答申を提出した際の首相が中曽根氏だった。牛尾氏は若手財界人を代表して臨調に加入。中曽根氏は「私の手で日本を改革しなければ、この国の発展はない」と繰り返していたという。
 国鉄は87年に分割・民営化された。「国鉄改革3人組」の一人でJR東海名誉会長の葛西敬之氏は「中曽根氏のリーダーシップがあったからこそ実現できた」と悼んだ。
 民営化に反対した国鉄労働組合(国労)などの組合員がJRに採用されずに解雇され、「リストラの原点」と捉える声もある。
 「人生を翻弄(ほんろう)された。民営化がいいことずくめだったかのように語られるのは納得できない」。35歳だった90年に国鉄清算事業団を解雇され、2011年まで解雇撤回闘争を続けた佐久間誠さん(64)=北海道名寄市=は複雑な思いを語る。当初から狙いは「(野党第1党だった)社会党の支持組織の国労つぶしだ」と思ってきた。実際、官公労はその後弱体化し、社会党は少数勢力となった。中曽根氏の「改革」は「弱い立場の労働者や地域を切り捨ててもいいという社会を生んだ」と指摘する。
 同様に闘争を続けた赤峰正俊さん(59)=大分県豊後大野市=も厳しい目を向ける。「今や非正規も当たり前の世の中になってしまった。働く人の人権や生活を顧みない政治路線は、今の安倍政権まで継承されている」と言う。
 民営化は経営の自由度を高めた一方、格差も生じた。大都市が基盤のJR東日本、東海、西日本に対し、JR九州、四国、北海道の3社の経営は厳しく、不採算路線が影を落とす。
 中曽根氏は旧大蔵省が作ってきた予算方針を「土光臨調」に作らせるなど、官邸の権限を強化。この傾向は橋本龍太郎内閣(96~98年)での内閣法改正で制度化され、小泉純一郎内閣(01~06年)にも引き継がれた。この間、小選挙区制導入で自民党内の派閥は弱体化した。安倍晋三首相が側近の「官邸官僚」を重用して権限集中を進める「1強」体制の源流は、中曽根政権にあると言える。【三沢耕平、坂本高志】

日米重視、韓国とも改善

 中曽根氏はロナルド・レーガン米大統領(当時)と、互いを「ロン」「ヤス」と呼び合う盟友関係を築き、日米同盟強化を進めた。さらに「近隣関係が強固でなければ対米外交もうまくいかない」(首相退任後のインタビュー)とし、歴史問題を抱える韓国や中国との関係進展にも努めた。
 政権発足時の1982年11月、米韓との関係は冷え込んでいた。米国は前任の鈴木善幸首相の「日米同盟に軍事的側面はない」との発言に反発。韓国は、経済協力に関する鈴木内閣の園田直外相発言に「交渉断絶だ」と憤っていた。
 まず手をつけたのは韓国。83年1月、就任後初の外国出張先に、通例の米国でなく韓国を選んだ。日本の首相として戦後初めて韓国を訪問した中曽根氏は、全斗煥(チョンドゥファン)大統領らを前に韓国語でスピーチ。驚きで会場は静まり、涙を流す韓国側出席者もいたという。その後の宴席では中曽根氏が韓国語、全氏が日本語の歌を抱き合いながら歌い、首脳同士の信頼関係を築いた。
 中曽根氏は2018年の記者会見で「戦争を経験し、長年政治に携わってきた者として、日韓関係は最も大切な2国関係の一つだと考えていた」と語った。
 日韓修復の実績を手に、直後に訪問した米国ではレーガン氏と「日米は運命共同体」と確認。防衛費の国民総生産(GNP)比1%枠の突破の意欲も示した。高く評価したレーガン氏は予定になかった家族同伴の朝食会に招待して「互いをファーストネームで呼び合おう」と提案したという。
 訪米中、米ワシントン・ポスト紙幹部との朝食会で「日本列島を(対ソ連の)不沈空母のように強力に防衛する」と発言したことに日本国内で反発はあったが、米国では歓迎された。
 先進7カ国首脳会議(G7サミット)の記念撮影で、中央のレーガン氏の横に納まったのも「ロン・ヤス」関係によるもの。公明党の山口那津男代表は党会合で「日本の存在を大いに高めた印象がある」と語った。
 中曽根内閣の官房副長官を務めた山崎拓・自民党元副総裁は29日、85年の西ドイツでのG7サミットに同行した際のエピソードを明かした。中曽根氏がレーガン氏に、東西ドイツと朝鮮半島が冷戦の最前線となっており、日米それぞれが解消に向け動くべきだと提案したという。山崎氏は「御用聞き外交どころか、国際社会を動かすリーダーの一人として傑出していた」と振り返った。【田所柳子】

原子力利用に先べん

 「アメリカに原子力産業会議ができて軍用から民間の平和利用に移行する頃でした。日本も早くこの流れに乗らないと取り残されると、大いに焦燥感に駆られます」
 自著「自省録―歴史法廷の被告として―」で中曽根氏はそう記した。改進党衆院議員だった1954年、戦後初の原子力予算を政治主導で成立させた。
 海軍に所属していた45年8月、高松で広島原爆のキノコ雲を目撃。当時の心境を「原子力開発十年史」に「次の時代は原子力の時代になると直感した」と書いた。
 アイゼンハワー米大統領は53年12月の国連総会で「アトムズ・フォー・ピース」(原子力の平和利用)について演説した。中曽根氏らはこうした流れに機敏に反応。原子力予算の成立に力を尽くした。衆参両院の原子力合同委員会で委員長を務め、55年に原子力基本法を成立させた。54年にマグロ漁船「第五福竜丸」がビキニ環礁で死の灰を浴びたことから、原子力の平和利用を強調した。
 核燃料の再処理などに関する取り決めを定めた日米原子力協定(88年発効)でも尽力。日本は核兵器の非保有国だが使用済み核燃料の再処理が認められ、そこで取り出されるプルトニウムを所有できるようになった。
 中曽根氏らが先べんをつけた原子力政策は、70年代の本格的な原発建設につながった。しかし、99年に核燃料を加工していた「ジェー・シー・オー」東海事業所(茨城県)で、被ばくにより2人が死亡する臨界事故が起き、2011年には東京電力福島第1原発事故が発生。中曽根氏は再生可能エネルギーの推進も訴えるようになった。
 鈴木達治郎・長崎大核兵器廃絶研究センター副センター長は「原子力を理解した数少ない政治家。日米交渉では核兵器への道を残そうとする発言もあったが、一線を退いてからは海外の有識者と核軍縮についても発信した」と振り返った。【斎藤有香、荒木涼子】

中曽根康弘氏 関連年表

1918・5  群馬県高崎市に生まれる
  41・3  東大法学部政治学科卒業
    ・4  内務省入省、海軍に志願し主計少尉に
  45・9  海軍主計少佐で退役
    ・10 内務事務官、内務大臣官房勤務
  46・2  香川県警務課長
    ・9  警視庁監察官
    ・12 依願退職
  47・4  衆院議員に初当選
  59・6  科学技術庁長官(第2次岸改造内閣)として初入閣
  66・12 自民党河野派分裂、新政同志会(中曽根派)を結成
  67・11 第2次佐藤第1次改造内閣で「反佐藤」の立場から一転、運輸相として入閣
  70・1  防衛庁長官(第3次佐藤内閣)
  71・7  自民党総務会長(同)
  72・7  通産相兼科学技術庁長官(第1次田中内閣)
    ・12 通産相(第2次田中内閣)
  74・12 自民党幹事長(三木内閣)
  77・4  衆院ロッキード問題調査特別委で証人喚問
    ・11 自民党総務会長(福田改造内閣)
  78・11 自民党総裁予備選に立候補。大平正芳、福田赳夫両氏に続き第3位
  80・7  行政管理庁長官(鈴木内閣)。その後、第2次臨時行政調査会(土光臨調)を設置
  82・11 首相就任
  83・1  首相として戦後初の公式訪韓
    ・1 「武器輸出三原則」の例外として、対米武器技術供与を閣議了承
  85・8  終戦記念日に首相として戦後初の靖国神社公式参拝。中国などの猛反発で、以後中止
  86・7  衆参同日選で自民圧勝
    ・9  中曽根首相の総裁任期を特例で1年延長
    ・11 国鉄を分割・民営化する関連8法成立
  87・10 竹下登幹事長(当時)を後継総裁に指名
    ・11 退陣
  88・6  自らが構想した財団法人「世界平和研究所」が発足
  89・5  リクルート事件で証人喚問(衆院予算委)。自民党離党
  90・2  旧中曽根派を渡辺美智雄氏に譲る
  91・4  自民党復党
  97・4  議員在職50年。大勲位菊花大綬章を受章
2003・10 衆院議員引退
  05・1  自民党新憲法起草委の前文に関する小委員長
  08・4  中国の胡錦濤国家主席と会談
  18・1  世界平和研究所から中曽根康弘世界平和研究所に名称変更
  18・5  100歳を迎える
  19・11 死去



中曽根康弘死去で
あらためて振り返る従軍慰安婦
中曽根の「慰安所つくった」証言と
「土人女を集め慰安所開設」防衛省文書
2019年11月29日:LITERA
左・中曽根元首相の“手記”が収録されている『終りなき海軍』(文化放送開発センター)
/右・中曽根元首相が慰安所を設置させたことを示す資料

 中曽根康弘元首相が、101歳で死去した。メディアでは、国鉄民営化や日米安保体制強化などを功績として振り返っているが、負の側面も非常に大きい政治家ある。
 たとえば、現在の日本社会にもつながる右傾化・歴史修正主義の台頭や新自由主義路線の端緒となり、日本の戦後民主主義政治を歪めた張本人だ。こうした功罪の罪の部分も検証されるべきだが、なかでも本人が一度は告白しながら途中からダンマリを貫いたこの問題はきっちり検証するべきだろう。
 そう、日本軍の従軍慰安婦問題だ。
 中曽根元首相が戦時中、海軍主計士官(将校)の地位にあったことは有名だが、その当時、自ら慰安所の設置に積極的に関わり、慰安婦の調達までしていたことを、戦後に自分の“手記”の中で自ら書いているのだ。
 しかも、これは中曽根元首相の思い違いでも妄想でもない。防衛省にも中曽根元首相の“慰安所づくり”証言を裏付ける戦時資料が存在している。
 本サイトでは、2014年夏、朝日新聞の慰安婦記事バッシングが盛り上がり勢いづいた右派の、慰安婦の存在や日本軍の関与までなかったことにしようという歴史修正主義の動きに抵抗するため、この中曽根“慰安所づくり”証言とそれを裏付ける戦時資料について詳しく報じた。(ちなみに、フジ産経グループの総帥だった鹿内信隆にも中曽根元首相と同様に、慰安所づくりへの関与発言があり、やはり本サイトが記事にしている(https://lite-ra.com/2014/09/post-440.html)。
 中曽根元首相の証言は、従軍慰安婦に日本軍が組織的に関与していたことを物語る重大な証言だったが、手記出版から30年ほど経ってからこの記述がクローズアップされると、中曽根元首相は一転否定、その後ダンマリを通してきた。
 中曽根元首相には、従軍慰安婦問題とりわけ日本軍の関与について、自らの口で明らかにする歴史的責任があったはずだが、それはかなわなくなってしまった。
 中曽根“慰安所づくり”証言とそれを裏付ける戦時資料から、従軍慰安婦の存在と日本軍関与が事実であることを報じた記事を再録する。「慰安婦は存在しなかった」というデマが大手を振って罷り通るいま、あらためてご一読いただきたい。
(編集部)
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●中曽根元首相が
「土人女を集め慰安所開設」! 防衛省に戦時記録が
 朝日新聞の慰安婦訂正記事で右派陣営が勢いづいている。「朝日は責任をとれ!」と気勢をあげているのはもちろん、自民党の政務調査会議は河野談話も朝日報道が前提だとして「河野談話を撤回し、新たな官房長官談話を!」とぶちあげた。また、同党の議連では朝日新聞関係者、さらに当時の河野洋平元官房長を国会に招致して聴取すべき、という意見までとび出している。
 
 だが、朝日や河野洋平氏を聴取するなら、もっと先に国会に呼ぶべき人物がいる。それは第71代日本国内閣総理大臣の中曽根康弘だ。
 
 大勲位まで受章した元首相をなぜ従軍慰安婦問題で審訊しなければならないのか。それは先の大戦で海軍主計士官(将校)の地位にあった中曽根元首相が、自ら慰安所の設置に積極的に関わり、慰安婦の調達までしていたからだ。
中曽根が手記で「原住民の女を襲う」部下のために「苦心して、慰安所をつくってやった」と自慢
 何かというと左翼のでっちあげとわめきたてて自分たちを正当化しようとする保守派やネトウヨのみなさんには申し訳ないが、これは捏造でも推測でもない。中曽根元首相は自分の“手記”の中で自らこの事実を書いており、しかも、防衛省にそれを裏付ける戦時資料が存在していたのだ。そこには、部隊の隊員によるこんな文言が書かれていた。

「主計長の取計で土人女を集め慰安所を開設」

 まず、“手記”の話からいこう。中曽根が慰安所設立の事実を書いたのは『終りなき海軍』(松浦敬紀・編/文化放送開発センター/1978)。同書は戦中海軍に所属し、戦後各界で活躍した成功者たちが思い出話を語った本だが、その中で、海軍主計士官だった中曽根も文章を寄稿していた。
 タイトルは「二十三歳で三千人の総指揮官」。当時、インドネシアの設営部隊の主計長だった中曽根が、荒ぶる部下たちを引き連れながら、いかに人心掌握し戦場を乗り切ったかという自慢話だが、その中にこんな一文があったのだ。
「三千人からの大部隊だ。やがて、原住民の女を襲うものやバクチにふけるものも出てきた。そんなかれらのために、私は苦心して、慰安所をつくってやったこともある。かれらは、ちょうど、たらいのなかにひしめくイモであった。卑屈なところもあるし、ずるい面もあった。そして、私自身、そのイモの一つとして、ゴシゴシともまれてきたのである」
 おそらく当時、中曽根は後に慰安婦が問題になるなんてまったく想像していなかったのだろう。その重大性に気づかず、自慢話として得々と「原住民の女を襲う」部下のために「苦心して、慰安所をつくってやった」と書いていたのだ。
 ところが、それから30年たって、この記述が問題になる。2007年3月23日、中曽根が日本外国特派員協会で会見をした際、アメリカの新聞社の特派員からこの記載を追及されたのだ。
防衛省に、中曽根「慰安所づくり」証言を裏付ける客観的証拠が!
 このとき、中曽根元首相は「旧海軍時代に慰安所をつくった記憶はない」「事実と違う。海軍の工員の休憩と娯楽の施設をつくってほしいということだったので作ってやった」「具体的なことは知らない」と完全否定している。
 だが、これは明らかに嘘、ごまかしである。そもそもたんなる休憩や娯楽のための施設なら、「苦心」する必要があるとは思えないし、中曽根元首相の弁明通りなら、『終りなき海軍』の“手記”のほうがデタラメということになってしまう。だが、同書の編者である松浦敬紀はその10年ほど前、「フライデー」の取材に「中曽根さん本人が原稿を2本かいてきて、どちらかを採用してくれと送ってきた」「本にする段階で本人もゲラのチェックをしている」と明言しているのだ。
 いや、そんなことよりなにより、中曽根元首相の慰安所開設には、冒頭に書いたように、客観的な証拠が存在する。 
 国家機関である防衛省のシンクタンク・防衛研究所の戦史研究センター。戦史資料の編纂・管理や、調査研究を行っている研究機関だが、そこにその証拠資料があった。
 資料名は「海軍航空基地第2設営班資料」(以下、「2設営班資料」)。第2設営班とは、中曽根が当時、主計長を務めていた海軍設営班矢部班のことで、飛行場設営を目的にダバオ(フィリピン)、タラカン(インドネシア)を経てバリクパパン(インドネシア)に転戦した部隊だが、この資料は同部隊の工営長だった宮地米三氏がそれを記録し、寄贈。同センターが歴史的価値のある資料として保存していたものだ。
 
 本サイトは今回、同センターでその「第2設営班資料」を閲覧し、コピーを入手した。
 宮地氏の自筆で書かれたと思われるその資料にはまず、「第二設営班 矢部部隊」という表題の後、「一 編制」という項目があり、幹部の名前が列挙されていた。すると、そこには「主計長 海軍主計中尉 中曽根康弘」という記載。そして、資料を読み進めていくと、「5、設営後の状況」という項目にこんな記録が載っていたのだ。
「バリクパパンでは◯(判読不可)場の整備一応完了して、攻撃機による蘭印作戦が始まると工員連中ゆるみが出た風で又日本出港の際約二ヶ月の旨申し渡しありし為皈(ママ)心矢の如く気荒くなり日本人同志けんか等起る様になる
 主計長の取計で土人女を集め慰安所を開設気持の緩和に非常に効果ありたり」
 さらに「第2設営班資料」のなかには、慰安所設置を指し示す証拠となる、宮地氏の残したものと思われる手書きの地図も存在していた。

インドネシアで民家だった場所を、
日本軍が接収し慰安所に作り変え!

 それはバリクパパン「上陸時」の様子(昭和17年1月24日)と、設営「完了時」の様子(17年1月24日〜同年3月24日)を表す2点の地図資料だ。バリクパパン市街から約20km地点のこの地図から、中曽根たちが設営したと思われるマンガル飛行場滑走路のそばを流れるマンガル河を中心に民家が点在し、またマンガル河から離れた場所に民家が一軒だけポツリと孤立していることがわかる。
 そして2つの地図を見比べてみると、“ある変化”があることに気づく。「上陸時」から「完了時」の地図の変化のひとつとして、その孤立した民家の周辺に、設営班が便所をおいたことが記されている。さらにその場所には「上陸時」にはなかった「設営班慰安所」との記載が書き加えられている。
 つまり、上陸時に民家だった場所を日本軍が接収し、「設営班慰安所」に変えてしまったと思われるのだ。 
 もはや言い逃れのしようはないだろう。「主計長 海軍主計中尉 中曽根康弘」「主計長の取計で土人女を集め慰安所を開設」という記載。それを裏付ける地図。中曽根元首相が自分で手記に書いたこととぴったり符号するではないか。
 しかも、「土人女を集め」という表現を読む限り、中曽根主計長が命じて、現地で女性を調達したとしか考えられないのである。
 実際、インドネシアでは多くの女性が慰安婦として働かされており、彼女たちは日本軍に命じられた村の役人の方針で、どんなことをさせられるのかもしらないまま日本兵の引率のもと連れ去られたことを証言している。そして、年端も行かない女性達がいきなり慰安所で複数の日本兵に犯されたという悲惨な体験が語られ、その中にはこのパリクパパンの慰安所に連れてこられたという女性もいる。
 
 つまり、中曽根首相がこうした“強制連行”に関与していた可能性も十分あるのだ。
 朝日新聞の訂正で勢いづいた保守・右派勢力は銃剣を突きつけて連行したという吉田証言が虚偽だったという一事をもって、強制連行そのものを否定しようとしている。さらには従軍慰安婦への軍の関与そのものを否定するかのような虚偽を平気でふりまいている。
 しかし、もし、強制連行はない、軍の関与もないといいはるならここはやはり、「土人女を集め」たという元主計長・中曽根康弘を国会に喚問して、どう「集め」たのか、「苦心」とはなんだったのか証言させるべきではないのか。一メディアの誤報をあげつらうより、そのほうがはるかに「歴史の検証」になると思うのだが、いかがだろう。
(エンジョウトオル)

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