事務化が進む学校教育

40年前、初めて担任になった時、学級日誌の表紙に、ボクは「知る・考える・行動する」と書き込んだ。高校で「学ぶ」ということは、中学とどこが違うのかを考えてのことだった。
当時読んだフレイレだったか「教育とは行動の変容をもたらす」という言葉や、教員が教壇から圧倒的な知識量で生徒を圧倒する授業を変えたい気持ちがあったからだ。
今では「トーク&チョークの授業からの脱却」とか、「主体的、対話的な深い学び(アクティブラーニング)」などと言われるが、現実の教室では、生徒を支配する教員がほとんどだ。
「学び」は学校・教室の専売特許ではない。今では各種メディア、WEBなどさまざまなチャンネルで子どもたちは学び、学校の教育は相対的に低くなっている。すでに、単純な知識注入型の授業は陳腐化しているのに、いまだに多くの教員は、教え込むことをゴールとしているきらいがある。
今年8月の新聞各紙は、アジア太平洋戦争の歴史化を訴えるものが多かった。戦争体験者はいずれ、いなくなる。それまでに、しっかりと“歴史”をつくり上げておかねばならない。最近の歴史修正主義の動きを見るにつけ、その必要性を強く感じている。
この国では、未だ国が始めた戦争の責任を認め、国民に謝罪すらしていない。敗戦後のスタートラインにも立っていないようなこの国の未来は危うい。

先細る語り部 継承の今後は
戦争体験と平和
元兵士の大半90代後半 講演会も困難に
2019年8月18日:東京新聞・こちら特報部

 太平洋戦争の敗戦から74年。15日の全国戦没者追悼式では、参列者の遺族のうち戦後生まれが初めて3割に達した。戦争を直接知る人は急速に減り、各地で記憶を語り継ぐ活動も岐路を迎えている。悲劇を二度と繰り返さないために、体験者の思いをいかに次世代につないでいけるかが問われている。(中山岳)

 「陸軍では兄を含め多くの兵士が命を落とした。今は陸軍学校の同期もだいぶ少なくなった」
 終戦記念日の15日、千葉県松戸市の男性(92)は、しみじみ話した。戦時中、埼玉県にあった陸軍予科士官学校にいた。ほふく前進の訓練では、苦しくて頭を上げると教官から「戦士」とどやされ、軍刀で頭を殴られた。「戦地で頭を上げれば銃撃されるからね。そういう訓練を延々とやる。厳しかった」
 戦況が悪化し、学校周辺で米軍機の機銃掃射に襲われたこともあった。「低空飛行してきて、乗組員の顔もはっきり見えた」。同期の仲間たちと群馬県に疎開し、終戦を迎えた。自分は戦地に行かなかったが、陸軍の電信兵だった兄は中国・広東省に出征した。高圧電線に触れて感電死した。
 男性は「私たちの世代は戦争を身をもって知った。絶対に繰り返してはならない」と話す。ただ、戦争を知らない世代に体験を伝える難しさも感じている。
 「これまで子どもや孫にも、あまり話してこなかった。今の若い人たちは戦争を歴史としてしか、捉えられないのではないか。学ばないと分からないことも多いのだろう」
 敗戦から74年を過ぎ、戦禍を経験した人は減り続けている。戦地で負傷するなどして戦傷病者と認定され、手帳の交付を受けた軍人・軍属らの数は、2017年度は6871人。それまでの5年間で半減した。日本傷痍軍人会も、会員の高齢化で13年に解散。旧軍人だけでなく、原爆の被爆者団体の解散も各地で相次いでいる。
 戦争の記憶を伝える語り部の活動も、存続が危ぶまれている。元兵士や支援者らでつくる「不戦兵士・市民の会」によると、ピーク時に約200人いた元兵士の語り部は、現在は数人ほどに。戦地を経験した元兵士は大半が90代後半になっている。
 事務局長の森脇靖彦さん(75)は「以前は各地で戦争体験を話していた会員たちも、ほとんどの人は体力が落ちて、出掛けられなくなっている」と話す。
 会は11月に元特攻隊員の男性の講演会を企画している。しかし、近年はこうした集会を年に1回開くのがやっとだ。会員たちは何とか会を存続させようと、戦争体験者の手記を収めた200号近くある機関誌の活用も考えている。
 森脇さんは、戦争体験者が減る一方で、15年に安全保障関連法が成立し、近年は防衛費が膨張していることなどを危ぶんでいる。「まるで戦前に回帰するようだ。今こそ戦争体験者の生の声を聞くことは必要なはず。なかなか届けられないのは、じくじたる思いだ」と語る。

デスクメモ
 ある戦争研究家。「戦場では、普通の人がひどいことをしてしまう」と力説していた。それが戦争の本当の恐ろしさという。話は長く、内容は重い。その時は聞き流してしまった。今は後悔している。風化する戦争体験。とりわけ加害の歴史が消されようとしているからだ。              (裕)

中学生が学ぶ場「学校」から「テレビ」へ
遠い過去 若者に広がる「人ごと」感
世代・国超え語ろう
遺跡や資料館「歩いて調べて考えて」

 戦争体験者が減り、若い世代が戦争の悲惨さを理解できなくなっていないか。そんな疑問を抱かせる出来事も相次いでいる。太平洋戦争の沖縄戦で住民が集団自決に追い込まれた沖縄県読谷村の自然壕「チビチリガマ」で17年、10代の少年4人が遺品などを壊した。逮捕さえた少年たちは「悪ふざけで壊した」「肝試しに行った」と供述。14年には、長崎市を修学旅行で訪れた横浜市の男子中学生が、被爆者の語り部の男性に「死に損ない」などと暴言を浴びせた。
 京都教育大の村上登司文教授(平和教育)は「戦争から年月がたつにつれ、自分に関係あることとして捉えられない子どもが増えている」と指摘する。
 16年、中学生約1200人に対し戦争について学ぶ手段を聞いた。「テレビ」が8割弱で最多。一方、原爆の「被爆者」は3割弱、「被爆者以外の戦争体験者」は2割にとどまった。
  この調査は06年にも実施し、「(学校の)先生」が8割弱で最多だった。それが16年は5割強。村上氏は「現役教師も親の世代に戦争体験者は少なくなり、子どもたちに伝えることが難しくなっている。このままでは学校の平和教育が先細りになる」とみる。
 では今後も戦争の記憶を継承していくには、どうしたらいいのか。
 戦争体験者とボランティアらでつくる「戦争体験放映保存の会」(東京)は、04年から元兵士や沖縄戦に巻き込まれた民間人らの証言をビデオ撮影している。これまで約1700人分を記録し、一部を要約した文章をインターネットで公表した。今後、500人分の動画も公開する。
 会は、戦争体験者の話を聞いたり、映像記録を見たりする茶話会も定期的に開く。参加者は少人数のグループごとに映像記録を見て意見を交わす。
 会事務局次長の田所智子さん(53)は「映像を見て感じることは、年代や人によって違う。見るだけでなく互いに語り合うことで、体験に深みが増す」と話す。
 世代や国境を超えた試みもある。10日に東京都内で開かれたシンポジウム「世界とつながろう」(主催「若者から若者への手紙194512015」翻訳プロジェクト)。日本、米国、セネガルなどにルーツを持つ20~80代が平和をつくるアイデアを議論。「多様性を認め合う」ことをアートで表現した。群馬県立女子大4年の川島藍さん(22)-群馬県大泉町-は「絵本の読み聞かせを通し、幼いうちに戦争を考えるきっかけをつくる」というアイデアに共感した。「いろいろな世代の人たちと話し、新しい視点に気づけた」
 「不戦兵士・市民の会」で監事を務める本條勤さん(86)=東京都渋谷区=も参加し、「若者から戦争への思いを聞き、平和のあり方を話し合えて素晴らしい経験だった」と喜んだ。
 シンポジウム企画メンバーで立命館大の秋山肇・嘱託講師(平和学)は「さまざまな立場の人が話し合い共に表現する事で、多様な視点で平和について考えられる。最近は国内外で意見の異なる人を排除、分断する動きもあり、戦争・紛争を防ぐにはこうした場が重要ではないか」と話す。
 村上氏も「戦後に生まれた世代は、戦争体験者の証言や映像を一方的に受け取るだけでは身近に感じにくい。各地の戦争遺跡や平和資料館を訪れ、現地で語り継いでいるガイドや案内者の話を聞き、話し合うことも考えるきっかけになる」と指摘する。そして「疎開や勤労動員など、戦時中に自分と同世代の人々が体験したことに絞って調べてみることも、一つの方法だ」と提案する。

論点 なお道半ば 戦後補償
2019年8月31日:毎日新聞

 敗戦から74年が過ぎてなお、戦争被害に苦しみ国に補償を求めて闘っている人たちがいる。戦没者の膨大な遺骨は国内外で眠ったままだ。23日はソ連の独裁者スターリンがシベリア抑留の秘密指令を出した日。戦後未補償の現状と課題、見通しについて抑留と空襲被害者の救済に奔走している2人に語ってもらった。【聞き手・栗原俊雄】

政治家の理解が不可欠 有光健・大阪経済法科大客員研究員
有光健さん=栗原俊雄撮影

 シベリア抑留を巡っては、まず全国抑留者補償協議会(全抑協)が国に補償を求めて司法に訴えた。しかし1997年の最高裁で敗訴が確定し運動は停滞した。2000年代になってから、抑留体験者たちは立法による救済を求めて活動を本格化させた。
 長い自民党政権時代、「戦後補償問題は終わった」という認識が広がっていた。それでも野党だった民主党(当時)を中心に、救済を目指す法案が06年、国会に提出されたが、自民・公明政権の下で否決された。体験者の一部には「これで一区切りにしては」との声もあったが、「やはり納得できない」と立法活動を継続することになった。
 そこで「なぜ否決されたのか」を考えた結果、「若い議員たちが、抑留の事実をよく知らないことが理由では」となった。戦争が終わった後に60万人もの日本人がソ連に拘束され、強制労働などで6万人が亡くなった。その事実を知ってもらうべく、体験者たちが自ら毎月永田町を回った。
 10年、シベリア抑留体験者への特別給付金支給を柱とする「シベリア特措法」が議員立法で成立。当事者たちの強い気持ちと粘り強い活動があればこそだが、やはり民主党への政権交代が大きかった。
 特措法は抑留の実態解明や遺骨収容の推進、後世への継承も国に課している。ところが期待された成果は上がっていない。遺族らが強く求めている、国による犠牲者の追悼式典も実現していない。遺骨収容では最近、日本人ではないと思われる骨を多数、日本に移送してしまったことが明らかになった。収容数は2万体ほど。残る4万体を収容するまでには、今のペースだとあと200年ほどかかる。すべて収容できないのは明らかだ。国は、たとえば現地慰霊の拡充など現実的な方策を提示しなければならない。
 また特措法が目指すことを実現する上で、国はロシア政府に主体的参加を強く求めるべきだ。ソ連の後継国なのだから。遺骨収容では現地を熟知し、移動手段や重機など機材も保有しているロシア軍の協力が不可欠のはずだ。
 シベリア抑留や空襲による被害は本来、米ソなど加害国が補償すべきだが、請求権を放棄した日本に責任が生じる。韓国など旧植民地出身の「戦犯」、沖縄からサイパンなど南洋諸島に渡った人たちなど、戦争被害で苦しみ、国に補償を求めている人たちは、ほかにもたくさんいる。こうした人たちへの新たな補償について、関係省庁は必ず反対する。被害者の声に耳を貸すと自分たちの先輩が練り上げた施策を否定することになる、と考えているのだろう。
 それを突破できるのは政治の決定だ。「何と言われようとやる」という政治家の強い決意とリーダーシップだ。
 当面、政権交代の可能性は低いから、与党の中に救済を支持する議員たちを増やさなければならない。シベリア特措法が成立した過程では、当時野党だった自民党、公明党も賛成した。個々の議員は、戦争被害者への救済について何が何でも反対ではないはずだ。被害の実態、未補償の事実を知ってもらうことがまず必要だ。高齢の当事者が行うのは難しくなっているが、支援者らが効果的に議員へのロビー活動を行うことが重要だ。

「パンドラの箱」論が壁 柿沢未途・衆院議員

柿沢未途衆院議員=栗原俊雄撮影

 空襲被害者への補償を巡っては1973年、議員立法の戦時災害援護法案が国会に提出された。以来、社会党(当時)や共産党などの野党によって89年まで計14回提出されたが、いずれも廃案になった。
 民主党政権だった2011年、援護法の成立を目指す超党派の議員連盟が作られた。ただメンバーは一部の党派に限られていた。12年の衆院選挙で多くの方が議席を失い、活動が事実上停止してしまった。私はその議連を作り直す過程を担った。
 活動だけではなく、形になる成果を残さなければならないという思いで、与党である自民党と公明党から役員を出してもらい、かつ自民党から会長に就いてもらうことに腐心した。そこで故・鳩山邦夫元法相が会長になってくれた。16年に鳩山さんが亡くなった後は、戦後処理問題に力を尽くしてきた河村建夫元官房長官が会長となった。
 私は15年6月、衆院の予算委員会で安倍晋三首相に空襲被害者や遺族らに対する最後の戦後補償について考えを聞いた。安倍首相は同年3月10日、東京・両国で行われた空襲被害者の慰霊法要に歴代首相として初めて参列していた。「このタイミングなら」という思いもあって質問をぶつけた。安倍首相の答えは「立法府、行政、みんなで考えていく問題」などといったものだった。
 このころは議連が再起動して骨子案作りが進み、おぼろげながらゴールが見えてきた。ただ予算委のこのやり取りで、「それをやったら(補償問題の)パンドラの箱が開く」と、押し戻そうとする動きも顕在化したように思う。
 17年には議員立法の骨子素案をまとめた。この素案では、空襲被害者のうち生存する障害者やケロイドなどを負った人を対象に、特別給付金50万円を支給することなどが柱だ。「対象が狭すぎる」「金額が低い」といった批判はあるが、この運動に長年関わってきた空襲体験者や、支援してきた弁護士などが議論をしてまとまったもの。
 当初目指していたものからはかなり譲歩したのは、「国家として、国会としてきちっとした結果を出す。超党派で賛同できる、成立させられる内容にしなければならない」ということで、苦渋の決断だった。
 なかなか法案提出に至らないのは、もともと野党の側から出た運動であることが影響している。もう一つは、法案の対象者について我々はかなり厳格な線引きをしているが、「パンドラの箱」論、つまり「空襲被害者は全国にたくさんいる。仮に一部でも認めれば際限なく広がってしまう」という見解を持つ人がいるためだ。
 現状は骨子素案を役員に各党に持ち帰ってもらっているところだが、そうした懸念を乗り越えてもらうまでに至っていない。
 この間、立法運動に関わってこられた空襲被害者のキーマンが次々と亡くなった。また現存する空襲被害者の年齢を考えると、痛恨の極みだ。
 時間はかかっているが、何とかあと一歩、と活動を続けている。今年6月の議連総会では、今まで距離を置いてきた与党の重鎮議員が参加した。流れが変わるのではと思っている。

 ■人物略歴
ありみつ・けん
 1951年生まれ。シベリア抑留者支援・記録センター代表世話人。共著に「戦後70年・残される課題」など。

 ■人物略歴
かきざわ・みと
 1971年生まれ。空襲で大きな被害があった東京都江東区が地元。2009年衆院初当選、現在4期目(無所属)。

朝鮮人徴用工にまつわる右派の誤解を正す
供与された3億ドルは「ひも付き」だった
杉田聡 帯広畜産大学名誉教授(哲学・思想史)
2019年08月23日:朝日新聞

強制的な労務動員――日本政府の異常な横やり

 韓国人元徴用工がおこした裁判に関する韓国大法院判決(2018年10月)についてはいろいろ語られるが、「徴用工」について見られる誤解を正しておきたい。
 「徴用」は、狭義には1944年の「国民徴用令」によって実施されたが、1939年の「募集」方式、1942年の「官斡旋」方式の場合も、強制的な「労務動員」が行われたことは、日本側の証言にも見ることができる(文京洙他『在日朝鮮人――歴史と現在』岩波新書、68頁、水野直樹他『日本の植民地支配――肯定・賛美論を検証する』岩波ブックレット、40頁、徐京植『皇民化政策から指紋押捺まで――在日朝鮮人の「昭和史」』岩波ブックレット、10頁)。
 特に中国の徴用工に対して日本企業が和解金を支払った事実があるのに(2000年に鹿島建設、2004年に日本冶金工業、2009~10年に西松建設、2015年に三菱マテリアル等)、なぜ日本政府は、韓国人元徴用工に同様の行動をとろうとする日本企業に、圧力を加えるのだろうか。
 それは韓国政府が、植民地支配の歴史に対する清算を表だって問題にするからであるが、同時に中国人とちがって韓国人は「併合」下にあって法的に日本臣民だったからである(この論理は詭弁である)。いや、今後に予想されかつ求められる「日朝交渉」を通じて、韓国人元徴用者に対する日本政府・企業の賠償責任があらためて浮上することを恐れているのであろうか。

朝鮮人徴用工についての誤解

 ところでネットで見ると、右派は、朝鮮人徴用工は中国人徴用工と区別されると主張している。論点は、大まかに見て次の4つ(うち2つには先の朝鮮人=「日本臣民」という理屈がからむ)に整理できそうである。だがいずれにも誤解がある。
(1)中国人徴用工を雇った日本企業は日本政府から補償を受けた事実があるために、最高裁は先のような判断(「河野外相こそ無礼。日韓関係を考える最低限の条件」)をしたが、朝鮮人徴用工を使った企業は補償を受けていない。――朝鮮人徴用工を使役した企業のなかにも、中国人徴用工を用いた企業と同様に、日本政府から補償を受けた例が少なくない(小池喜孝『鎖塚――自由民権と囚人労働の記録』現代史出版会、231頁)。
(2) 「日本人」である朝鮮人徴用工は、中国人徴用工と異なり賃金の支払いを受けた。――朝鮮人徴用工が送りこまれたのは炭鉱、鉱山、建設現場等であるが、そこでは「タコ」扱いを受けた朝鮮人労働者が多く、賃金が支払われないケースさえあった(徐前掲書、13頁)。
 支払われたとしても、日本人との賃金格差は――朝鮮人の正規労働者とさえ――大きかった(朝鮮半島での例だが中野茂樹『植民地朝鮮の残影を撮る』岩波ブックレット、34頁)。山辺健太郎によれば、1930年前後に朝鮮でおこった大ストライキの際は、「民族差別待遇撤廃」「日本人監督の殴打反対」などの要求が出されたという(山辺『日本統治下の朝鮮』岩波新書、148―9頁、後者の要求は次項(3)に関わる)。そうした時代に、朝鮮人徴用工が、右も左も言葉もわからない異郷の日本で差別待遇を受けずにすむということは、ありえまい。
 なお、徴用工に一定の賃金が支払われた場合でも、逃亡防止(→次項(3))のために貯金が強いられており、それは厚生省の指示に基づいていた(文他前掲書、72頁)。
(3)朝鮮人徴用工の労働環境は中国人徴用工と異なり日本人と同じだった。――朝鮮人徴用工も、「移動防止令」によって拘束されていたうえに(文他前掲書、71頁)、逃亡防止のために軟禁状態におかれ、しかも逃亡をはかった者への懲罰(徐前掲書、11~2頁)は当然視されていた。そうでなくても、きびしい監視下で四六時中の暴行(時に棍棒での)が加えられており、それは労働中のみか就寝中にも及び、当然少なくない死者が出ている(小池前掲書、236―7頁、徐前掲書、11-12頁)。
3億ドルは「ひも付き」だった
(4)日韓請求権協定にもとづいて日本が供与した無償3億ドルには個人補償金が含まれている(河野外相HP)。――供与された3億ドルも貸し付け2億ドルも、実は「ひも付き」だった。いずれも、「大韓民国の経済の発展に役立つものでなければならない」と明記されており(第1条第1項(b))、しかも韓国政府に現金が手渡されたのではなく、供与の対象は「〔3億ドルに〕等しい円の価値を有する日本国の生産物及び日本人の役務」であり(同上(a)、強調杉田)、貸し付けもこれに準じている(第1議定書第2条第1項)。
 要するに、供与された3億ドルは「日本国の生産物」、つまり日本製機械などの固定資本、日本製原資材などの流動資本、そして「日本人の役務」という可変資本の購入にあてられたと判断される。つまり日本政府が、自国企業の製品・サービスを日本円で(第1議定書第4条第1項)買い取り、それを韓国側に提供する、というのが3億ドル供与の実態である。
 おまけに韓国側は、無償3億ドルの請求権資金にかかわる「実施計画」を日本政府に提出することまで義務づけられた(同第5条第2項(a))。これでは韓国への資金拠出は、一般の「政府開発援助」ODAよりたちが悪いと言わなければならない。
 したがって、無償3億ドルの一部を――例えば韓国人被害者の補償のために――現金化せんとすれば、日本製品・サービス等をえた韓国企業から特別な法人税等を徴収するしかなかったと思われるが、韓国政府としては、「大韓民国の経済の発展に役立つ」よう韓国企業の利潤を極大化する経済政策をとらなければならなかっただろう。その時、どうやって韓国人被害者に十分な補償ができるのか。
 無償3億ドルが個人補償にあまり回らなかったのが事実だったとしても(文京洙『韓国現代史』岩波新書、111頁)、またその下には、開発独裁をめざす朴正煕政権の政治的判断があったのだとしても、そもそも日本政府が、個人補償を埒外において、各種「生産物」――それはベトナム特需がらみの物資を多く含んでいたが(朴根好『韓国の経済発展とベトナム戦争』御茶の水書房、84頁)、おそらく国内ではもはや売れなくなった商品をも含んでいただろう――を売りつけたい日本企業の思惑を最優先したのが、個人補償がほとんどなされなかった大きな要因だと見なければならない。

戦後74年で逆戻りか
真綿で絞められるような息苦しさ
2019年8月13日:日刊ゲンダイ

〈白が黒と言われ、黒が白と言われ、上のものが下に置かれ、下のものが上に置かれはじめた時、その国は「乱れ」、民は幸福と安寧を失い、貧困と混沌を生きねばならなくなります。そしてまさに今の日本は、国は「乱れ」、貧困と混沌を生きることを余儀なくされています〉

〈こうした「乱れ」を正していく、最も強い力を持っているのはもちろん「政府」です。しかし、その政府自身が「乱れ」はじめては、もはやその国で、政治の力で民の幸福と安寧を取り戻すことなど、期待できなくなります〉

 内閣官房参与を昨年末退任した藤井聡京大大学院教授は〈壊れかけた日本〉と題し、こう書いていたが、今のこの国の姿はもはや「壊れかけ」どころか、「すでにあちこちが粉々にぶっ壊れている」といった表現の方が正しいのではないか。2012年の第2次安倍政権発足以降、戦前の軍国主義時代を彷彿とさせるような「乱れ」が当たり前になりつつあるからだ。
 最近の出来事で真っ先に思い浮かぶのが、学校法人森友学園の国有地売却をめぐる財務省の文書改ざん・廃棄事件だろう。大阪地検特捜部の不起訴を受け、大阪第1検察審査会は佐川宣寿元財務省理財局長ら10人を「不起訴不当」と議決。特捜部の再捜査が行われたものの、結局、結論は変わることなく終結してしまった。

■権力犯罪を許す特捜部は即刻、解体すべきだ

「再度の不起訴処分は極めて遺憾。非常に怒りを持っている」

 佐川元局長らを告発した阪口徳雄弁護士が会見で怒りをあらわにしたのも当然だ。財務省はなぜ森友に国有地をタダ同然で売却する契約を結んだのか。コトの経緯を記した決裁文書や報告書はなぜ改ざん、廃棄されたのか。誰がいつ、どういう理由で改ざんや廃棄を指示したのか。何一つ、明らかになっていないのだ。
 国有財産が毀損し、自殺者まで出るなど、戦後史に残る重大事件と言ってもいいのに、政治家も官僚も誰ひとりとして責任を取らない。これが犯罪に問われないのであれば、この先も政府や役所はやりたい放題。都合が悪いことが起きたら、関連文書をすぐに改ざん、廃棄し、後は組織を挙げて知らぬ存ぜぬを貫き通せば許されてしまうからだ。佐川元局長らを告発していた上脇博之神戸学院大教授はこう言う。
「今回の結論に沿えば、公文書変造・同行使や、公用文書毀棄といった罪は成り立たなくなる。森友問題を反省し、二度と起きないよう行政文書をきちんと残すべきというのではなく、むしろ積極的に隠す方向に向かいかねない。とても民主主義国家とは言えません」

 その通りだ。それなのに特捜部は「必要かつ十分な捜査をした」とオウムのように繰り返すだけ。どんな追加捜査をしたのかもサッパリ分からない。かつては「巨悪を眠らせない」と息巻いていた特捜部だが、今や権力犯罪の真相に迫るという本来の役割を放棄し、グウグウと高いびきをかいて眠る巨悪をやさしく見守る組織に成り下がった。権力者の顔色をうかがい、言いなりで動く組織であれば、即刻、解体するべきだろう。

「アベ政治」の暴走を許せば行き着く先は戦争国家だ

 腐敗堕落の特捜部と同様、戦前の嫌な空気を感じさせるのが、開幕から3日で中止に追い込まれた国際芸術祭「あいちトリエンナーレ2019」の企画展「表現の不自由展・その後」の一件だ。
「ガソリン携行缶を持って美術館に行く」と脅迫文を送った愛知県内の男が威力業務妨害容疑で逮捕されたのは当然として、それ以上に深刻なのは、河村たかし名古屋市長が「日本人の心を踏みにじる」と言って展示中止を要求したり、菅官房長官らが芸術祭への補助金交付の見直しを示唆したりしたことだ。

 欧米では半ば常識となっている通り、現代芸術の作品は権力者を批判したり、賛否が分かれる社会問題をあえて取り上げたりするのが一般的だ。それぞれの立場や異なる視点で物事を考えさせるのが目的の一つでもあるからで、政府や権力者の意向に沿った作品の展示しか認めないのであれば、公権力による権力の乱用、表現の自由の侵害は言うまでもないし、独裁国家のプロパガンダ芸術と変わらなくなる。「表現の不自由展・その後」の中止にネトウヨは拍手喝采だが、「表現の不自由」が積み重なるほど、74年前の「いつか来た道」の時代に時計の針は逆戻り。いつの間にかジワジワと社会全体が真綿で絞められるような息苦しさを覚えることになるのだ。政治評論家の本澤二郎氏がこう言う。
「安倍政権は、この6年半、特定秘密保護法や共謀罪を成立させ、集団的自衛権の行使も容認するなど戦争するための国づくり、つまり、戦前の軍国主義化の準備を着々と進めてきました。表現の不自由展をめぐる今の異様な空気、排外主義とも言うべき主張は、一連の『アベ政治』の流れから生まれてきたものであり、今の日本の政治状況が極めて危うい状況になりつつある表れとも言えます」

■対抗措置や非難の応酬で得られる成果はない

 泥沼化する日韓対立でナショナリズムをあおるような今の日本政府の強硬姿勢もまた、植民地戦争、支配を肯定させた大日本帝国の「大国主義イデオロギー」を思い起こさせる。侵略戦争による植民地拡大、膨張政策が始まった当時の日本では、「文明国である日本」と「野蛮な国であるアジア」の戦いという図式が公教育とメディアを通じて広められたが、今回の日韓対立でも〈日韓基本条約で解決済みの徴用工問題を取り上げる野蛮な韓国を日本が「ホワイト国(優遇対象国)」から除外するのは当たり前〉といった論評が目立つ。
 安倍首相も「日韓請求権協定に違反する行為を韓国が一方的に行い、国交正常化の基盤となった国際条約を破っている」などと“隣国憎し”の発言を繰り返しているが、対抗措置や非難の応酬で何か得られるのか。相手国に対して拳を振り上げるばかりでは問題が解決しないのは北朝鮮問題でも分かったはずだ。安倍が「対話のための対話はしない」と言って「圧力一辺倒」の姿勢を取り続けた結果、米国や中国、ロシアなどが次々と金正恩朝鮮労働党委員長と首脳会談を行う中で、日本だけが蚊帳の外に置かれた。今回だって日韓の対立が長引くほど、核やミサイル開発を進める北を利するだけということがなぜ、分からないのか。

 政府の「乱れ」を正すのは本来、メディアの役目だ。「冷静になれ」と言うべき論陣を張ってもいいのに静観している。それどころか、政権と一緒に日韓対立をあおっているかのような報道もあるから何をかいわんやだ。元東大教授の桂敬一氏(ジャーナリズム論)はこう言う。
「今のメディアは問題の深掘りも検証もしない。やれ新元号『令和』だ、やれ進次郎が結婚した、と話題に飛びついて大騒ぎしてオシマイ。内政、外交でさまざまな問題が表面化してきた長期政権の安倍政治に対しても、大所高所から論点を整理して報じるべきなのに何もしない。全くどうかしています。メディアが権力の監視をやめて萎縮し、礼賛報道の大本営発表となれば、権力の私物化は際限なくなるでしょう」

 このまま「アベ政治」による「乱れ」を傍観していたら、間違いなく行き着く先は戦争国家だ。

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