この時代の危機とは

最近、ホント、憂鬱でやるせない…。ボクはどちらかと言えば「躁」なのだが、「鬱」気分になるのは歳のせいだけではないようだ。
7月はじめ、新丸ビルのエレベータで澤地久恵さんと遭遇した。上品に着物を着て凛とした姿は美しかった。その澤地さんが、毎月3日、国会門前のスタンディングを続けていることを知らなかった。
続けることは大変だが、大きな意味がある。ソウルの日本大使館前の「水曜行動」は1400回を超え、名古屋三菱女子挺身隊訴訟を支える会の三菱重工本社門前の「金曜行動」は800回になろうとしている。
この国の現状は、「茶色の朝」、国民は「ゆでガエル」か「蚤の箱」という状況だ。
ボクが小学生の頃、祖父に「おじいちゃんは、何で『戦争反対』って言わなかったの?」と聞いたことがある。1900年生まれの祖父は戦争当時“大人”だったはずで、不思議に思ったからだ。祖父はチョッと困った顔をして、「いつのまにか戦争になっていた」と答えてくれた。ボクは聞いてはいけないことを聞いたような感じがして、それ以上聞くことはしなかった。
戦争という不条理は、その時代を生きた全ての人々の本来の人生を奪っていく。ボクの祖父は戦争中、北京の都市計画で住宅建設に携わっていた。しかし、日本に残した次男(ボクの父は長男)が1945年の冬にジフテリアで亡くなったという。だが、そのおかげで敗戦前に日本に戻り、敗戦後の中国の混乱に巻き込まれずに済んだとよく言っていた。祖父は1945年と1960年に息子を亡くし、ボクが小学生の頃は、趣味の水彩画に慰めを求めていた。会ったこともない叔父も、息子を亡くした祖父母も、本来の人生が戦争によって歪められた。澤地さんが言うように「戦争だけはやっちゃダメ」なのだ。

安保法きっかけ 憲法無視の暴走見過ごせず
「安倍政治を許さない」デモ4年 作家・澤地久枝さんに聞く
たった1人でも立つ
2019年8月26日:東京新聞・こちら特報部

 東京・永田町の国会議事堂前に毎月3日、「アベ政治を許さない」と書かれたポスターを掲げる人の群れが現れる。安倍晋三首相に退陣を突き付けるデモだ。先頭に立つのはノンフィクション作家の澤地久枝さん(88)。シュプレヒコールもない。組織もない。一人ひとりの意志だけに支えられた行動は4年を超えた。猛暑の夏も体の限界に挑むように澤地さんは路上に立った。戦後74年。日本を見つめてきた作家は、何を思うのか。                                   (佐藤直子)

じーじーじーとセミの声が響く。8月3日。正午過ぎの都心の気温は32℃を超えた。強い日差しの中を議事堂正門向かいの歩道に人が集まる。帽子をかぶり、長袖シャツ姿の澤地さんがあいさつを交わす。つえを手にした男性、。北海道帯広市から、茨城県牛久市から、初めて参加したという女性たち。夏休みの小学生も交じっている。
 午後1時。、約100人が一斉に「アベ政治を許さない」のポスターを高く掲げた。顔に汗をにじませ、みな黙って議事堂を見つめる。10分がたち、通算47回目となったこの日のデモは終了。参加者が近況報告をして解散した。
 「すごい暑さでしたからね、ここでひっくり返るわけにいかないと思って、しっかり足を踏みしめていました。これで立っていられないんなら、やめだなって」。澤地さんは東京都内の自宅で8月のデモをこう振り返った。
 7月の参院選で自民党は議席を9減らした。しかし、投票率が50%に届かず、過去二番目の低さだった。澤地さんはそれが悔しい。「政権支持はまた少し上がったでしょう。一人ひとりが抗議の意思を示すことが、いよいよ大事になってきましたね」
 作家として澤地さんが問うてきたのは、人間をぼろぼろになるまで追い詰めいく国家や戦争のむごさだった。戦前の2・26事件や戦中のミッドウェー海戦の遺族らに焦点を当てた作品は、声なき声に耳を澄ます作業であり、日本人が忘れてはならない昭和の罪責を描く作業だった。それは「9条の会」や、3・11後の脱原発運動へのかかわりにも通じている。
 2013年12月に特定秘密保護法を成立させた政府は、15年に集団的自衛権の行使を認める安全保障関連法を強引に成立させようとしていた。憲法を無視した政治の暴走を見過ごせず、澤地さんは自ら呼び掛け人となって、法案が衆院を通過した直後の7月18日、最初の「許さない」デモを決行した。
 安保法が成立すると国会前の人の波は引いて行った。澤地さんは「悪法を廃止しよう」と訴え、憲法公布記念日の(文化の日)の11月3日にデモを再開。それ以来、毎月3日に必ず国会前で立ち続けている。
 「アベ政治を許さない」の文字は、昨年死去した俳人金子兜太さんの筆によるものだ。「兜太さんの字は力強い。見ているとね、兜太さんが生きてるみたい」
 国会前のほか、有志が同時刻、全国一斉に同じポスターを掲げる。自分の町の駅頭で、あるいは家の窓から、道ゆく人に見えるように。「政権にノーを言うことに勇気が必要になりましたけど、たった一人になっても立とうと思う。私はこう思うのよって、ギリギリの意思表示です」と澤地さんは言う。

さわち・ひさえ 1930年、東京生まれ。4歳の時に満州国吉林に移住、戦後の46年に帰国。18歳で中央公論社に就職し、9年間の編集者生活を経て作家デビュ。「妻たちの二・二六事件」「記録 ミッドウェー海戦」「密約 外務省機密漏洩事件」「14歳(フォーティーン)」など著作多数。作家小田実氏らと2004年に結成した「9条の会」や、原発事故後の「さようなら原発集会」の呼び掛け人となる。

国に捨てられた 敗戦時の苦難が原点
戦争 二度と許しちゃいけない
昨日できたことが今日はできない

 澤地さんが個人の力を頼みにするのは、国家に対する不信があるからだ。「国ってものはあてにならない。平気で国民を捨てる。ウソをつくんです」そう言い切る原点は、敗戦時の難民生活にある。
 幼いときに両親と満州国(中国東北部)に渡り、1945年8月の終戦時は14歳で女学校の3年生だった。満州国の関東軍は逃げるように先に撤退し、澤地さんら日本の民間人は取り残された。「私もお国のために死ぬ」と信じていた軍国少女でも、神風は吹かなかったことを理解した。
 ソ連軍の侵攻で日本兵の武装解除が始まった。「家の窓から外を見ていると日本兵たちが先陣訓の歌を歌いながらソ連軍に捕らえられていった。シベリア送りになったと聞きました」
 澤地さん一家の抑留生活は1年に及んだ。古いアパートに何世帯も身を寄せ、食料は不足した。栄養失調で人が死んでいった。
 中国人による暴行、ソ連兵の「女狩り」があった。澤地さんの家では母が必死に抵抗し、レイプは「未遂」に終わった。それでも恐怖とショックで澤地さんはその晩、トイレで吐いた「私にとっては、戦後こそが戦争だったんですね」
 記憶は何十年経ってもよみがえった。「心や体に深い傷を残す戦争をどうしたら伝えられるかしら」。ぽつりと澤地さんが言う。「若い人に『戦争のこと知ってる』って聞いても、知らないっておうむ返しよね。あの戦争で何があったのか、やっぱり、体験者がそれぞれの家で伝えていかなければならないと思うのね」
 50年6月25日、朝鮮戦争が始まった日を澤地さんは忘れらない。早稲田大学第二文学部の学生だった。仲間とピクニックに出掛けた先で開戦を聞いた。「大戦が終わってわずか5年でまた隣国で戦争が始まった。他国で流れた血の上に戦後日本の復興があったことを、忘れてはいけないと思うの」
 かつては自民党の政治家も戦争の悲惨さを語った。ところが、安倍首相は改憲を悲願とし、自民党は改憲草案で自衛隊を国軍と位置づけ、憲法九条を骨抜きにしようとしている。「九条を守ることは常識だった。今はすっかり変わって…。沖縄ではアメリカの言いなりに、巨大な新基地がつくられようとしている」
 「日本はまた戦争をする国になると思っていたけれど、今の政治はひどすぎる。国民は真綿で首を絞められていて、昨日できたことが今日はできない、そんなことが、日に日に増えているのではないかしら」
 あいちトリエンナーレ(名古屋市)での「表現の不自由展」が中止された出来事もその一つだ。「京都アニメーションの放火事件が起きたばかりだったから中止になった。一言の脅しでできなくなるなんて」
 そして澤地さんは「風流夢譚事件」を振り返る。雑誌「中央公論」に掲載された小説での天皇らの描写に憤った少年が、中央公論社社長宅で家政婦らを殺傷した事件だ。「あの後、天皇制を論じることが一気にタブーになってしまった」
 来年は復興をテーマにした東京五輪・パラリンピックがある。「熱狂の中で原発事故の被害を消し去る。問題のすり替えです。お祭り騒ぎの後に何がやってくるのか」と澤地さんは暗澹とした思いに駆られる。それでも安倍政権への抗議をあきらめない。
 満州から東京に帰り、バラック生活から始まった戦後。今の東京からは想像もつかない焼け野原の中で、少女らしく生きることは許されなかった。澤地さんにとって、戻りたくない時間なのだ。「戦争を二度と許しちゃいけない。そのためにならまだ頑張れるわよ」。来月、89歳を迎える。絶望のときこそ、しゃんとして、澤地さんは希望を見いだそうとする。

デスクメモ
 死者が多数の時、ひとりひとりに思いをやるのは難しい。澤地さんは違った。3400人を超えるミッドウェー海戦の全戦没者を特定し、名前を示して人生を追った。戦死者は数字でなく人間だと知らせる偉業だ。実名匿名が議論になる今だからこそ、記者として先輩に習いたい。              (裕)

この国はどこへ これだけは言いたい
評論家・佐高信さん・74歳
 今感じるべきは「絶望」だ
2019年8月30日:毎日新聞

=内藤絵美撮影

 「あの場面がね、ずっと残っているんだ、自分の中に」--。うだるような真夏の午後。評論家の佐高信さん(74)は窓から差し込む強い日差しをにらみつけながらそう切り出した。
 山形県酒田市出身で、生まれたのは終戦の年の1月。食べる物に窮する子供時代を過ごし、中学を卒業すると周囲の多くは集団就職で東京へ向かった。
 中学3年の時、同級生の中に小柄で頭の良い女子生徒がいた。成績は優秀だが、家は貧しく、進学などできないと周囲は知っていた。ある日、担任教師が進路希望の調査をすると言って、進学希望者は挙手するよう指示した。その子はまっすぐに手を挙げた。教師の瞳に「えっ?」というけげんな表情が浮かんだ。
 「その瞬間、その子がキッとした顔で言ったんだよ。『だって、希望でしょ』って」。佐高さんは女子生徒が内に秘めていた「怒り」を代弁するように強い口調で続けた。「本当の意味の『希望』は、『絶望』の沼にひたっている時にこそあるものだ。それなのに、今は誰もが軽々しく希望、希望と口にする。今、感じなくてはならないのは『希望』ではなく、むしろ『絶望』ではないのか」
 政治や経済、教育など、あらゆる社会問題について鋭く批評してきた辛口評論家の目には、この国が悪い方向へ逆戻りしていると映ってならない。非正規労働者が増え、格差は広がるばかり。憲法は改正に向けた動きが強まっている。そんな中、7月の参院選では何も現状が変わらなかったとして、「もはや日本は近代社会とはいえないのではないかと改めて感じた」と話す。
 永田町では、2世、3世などの「世襲議員」が増えている。とりわけ自民党では国会議員の約3分の1が世襲とされる。「武士の子は武士、農民の子は農民と身分が固定されているのは封建社会の話ですよ。身分による差別をなくし、『身分から契約へ』というのが近代の民主主義社会のはず。世襲は民主主義を息苦しくさせる。世襲が解消されないから、さまざまな弊害が生じている」
 今回の参院選の直前、老後資金2000万円不足問題が持ち上がった。平均的な無職の高齢夫婦(夫65歳以上、妻60歳以上)が老後を30年生きれば、年金以外に2000万円が必要になる--と金融庁のワーキンググループが報告書を作成した件だ。同庁のトップである麻生太郎副総理兼金融担当相はこれに絡み、衆院財務金融委員会で自身が年金を受け取っているかを問われた際、「受け取っていないと思う」とあいまいに答えた。「年金がいくらとか、自分の生活として心配したことはない」とも語った。そんな麻生氏の物言いが国民の怒りを増幅させたのは記憶に新しい。
 佐高さんは吐き捨てるように言う。「生活に困った経験がなければ、老後の切実さを理解しろといっても無理だよ。政治が『家業』になってしまえば、政治家の視野は狭くなり、ふつうに生きる人々の苦しみなんて分からなくなる。だから世襲はダメなんだ」。そして、こう続けた。「もし政治家の子供がどうしても政治家になりたいというなら、少なくとも選挙区を変えなければいけない。それが最低限のルールであるべきだ」
 日本と韓国の関係悪化のニュースが連日、報道されている。両国の政府関係者の顔に浮かぶ憎しみのこもった表情は直視するに堪えないほどだ。そんな状況を招いたことも、世襲議員らの「視野の狭さ」が絡んでいると佐高さんはみる。
 「かつての自民党には『保守の知恵』というのがあった。押してダメなら引いてみなっていう、相手の立場に立った粘り強い交渉を当たり前のように行っていた。沖縄の米軍普天間飛行場返還問題では、あの橋本龍太郎首相(当時)だって、かなり気難しい大田昌秀沖縄県知事(同)のところに何度も何度も足を運んでいたんだ」
 今はどうか。もちろん日韓関係がここまで悪化した一因は、韓国の文在寅(ムンジェイン)大統領側にもあるだろう。歴史的経緯を含め、幾重にも入り組んだ糸をほぐすのは容易な作業でないことも理解できる。だが「保守の知恵」が当然のようにあった時代に比べ、今の安倍晋三政権は、地道に、あきらめず、あらゆる知恵を絞って解決を目指す、という努力を十分にしているだろうか。
 「安倍政権は米国重視で何が悪いんだという『開き直り』を見せる一方で、米国に対するものとは明らかに違う『強気』を韓国に向けている。それはものすごく嫌な感じだ。結局、相手の痛みを知らないということなんじゃないか」
 ふいに田中角栄元首相のことを持ち出した。「田中元首相は『人間が10人いれば、1人ぐらい共産党がいる』と口癖のように語っていた。自分の理解が及ばないものは必ず存在するし、存在する理由もあるということだ。安倍政権は異論を許さないという姿勢だが、かつては異論があってこそ面白いという発想があった」
 自分とは正反対の立場の人々の考えも尊重する。そうした懐の深さを欠いていることが、さまざまな問題の根に潜んでいると指摘する。

気骨のある財界人として知られた中山素平氏=1986年撮影

 かつて「財界の鞍馬天狗(てんぐ)」の異名をとった人物がいた。日本興業銀行(現みずほフィナンシャルグループ)の元頭取、中山素平(そへい)氏だ。周囲から「そっぺいさん」と呼ばれて親しまれる一方で、富士製鉄と八幡製鉄の合併による新日本製鉄(現日本製鉄)の誕生に尽力するなど、戦後の経済界で活躍した。
 佐高さんによれば、中山氏は湾岸戦争(1991年)の際、「(自衛隊の)派兵はもちろん、派遣も反対です。憲法改正に至っては論外です。第二次世界大戦であれだけの犠牲を払ったのですから、平和憲法は絶対に厳守すべきだ」と言い切ったという。
 「そっぺいさんの潔い言動はよく知られているが、政権に対して堂々と物申す財界人はこれまで決して珍しくはなかった」と佐高さん。小泉純一郎元首相を支えた富士ゼロックス会長で、経済同友会の代表幹事だった小林陽太郎氏もその一人だ。首相の靖国神社参拝に関し「中国の理解が得られない。やめていただきたい」と直言した。自宅に火炎瓶が置かれるなどの悪質な嫌がらせを受けたが、小林氏は日中関係を良好に保つという信念を曲げなかった。
 古くは旧倉敷レイヨン(現クラレ)の社長だった大原総一郎氏がいる。国交回復前の中国にプラントを輸出しようとして、時の政権から大反対にあった。しかし大原氏は中国に対する戦争責任を感じていたとされ、「私は理想に忠実でありたい。いくばくかの利益のために、私の思想を売る意思は持っていない」と語ったという。
 「今の安倍政権の下では、直言するどころか、政権とうまく付き合い、その陰に隠れ、楽をして金をもうけようとする経営者ばかりじゃないか」。佐高さんの口調は激しい。
 日韓関係の悪化についても、実際に、貿易や観光などビジネスに影響が出始めている。だが財界からは政府に対して進言したり、提案したりといった大きな声は聞こえてこない。政治に対する一定の監視機能を持つのも財界人の役目だったはずなのに、どうしたことか。
 「そっぺいさんは一貫して政府からの叙勲の申し出を断り続けたと聞く。それは経済という独自の論理で動くことに徹し、政治家や官僚には頭を下げず、民間の気概を貫いたからだ。今の政権は自分たちに直言するような財界人を認めない。政治家の劣化とともに、財界人の劣化も進んでいるということだろう」
 私たちは「絶望」の沼の底に沈みつつあると自覚し、一刻も早くはい出さなければいけない。佐高さんの険しい横顔が、そう告げていた。【宇田川恵】

 ■人物略歴
さたか・まこと
 1945年、山形県生まれ。慶応義塾大法学部卒。高校教員や経済誌編集長などを経て、82年、評論家として独立。「憲法行脚の会」の呼びかけ人の一人。著書に「平民宰相原敬伝説」「巨大ブラック企業」「城山三郎の昭和」「反-憲法改正論」など多数。

[大弦小弦]弾圧の順番
2019年8月26日:沖縄タイムス

 ドイツの牧師マルティン・ニーメラーは「ナチスが最初共産主義者を攻撃した時」で始まる警句を残した。「私は声を上げなかった。私は共産主義者ではなかったから」。次に社会主義者、労組と弾圧が広がる
▼日本も労組が標的になる段階まできた。生コン車の運転手らでつくる連帯ユニオン関西地区生コン支部、通称「関生(かんなま)」。組合員らの逮捕は延べ85人、委員長と副委員長の勾留は28日で1年になる
▼警察と検察は労使交渉を「強要」とみなすなど、憲法が保障する組合活動自体を罪に問う。取調室では「関生を削っていく」と宣言したという。ナチスを礼賛する差別主義者が、ネットと街頭で唱和する
▼弁護団は、今や少なくなった「闘う組合」が狙われたとみる。関生は生コン価格を上げさせ、大企業の権益を脅かしてきた。だから弾圧される。国策に抗する辺野古や高江とも共通点がある
▼沖縄で抗議に加わったことがある組合員も今回起訴された。「社会の片隅に置かれた感じ。沖縄と同じで誰も関心を持ってくれない」。メディアも問題視しない
▼強制収容所から生還したニーメラーの警句は「彼らが私を攻撃した時、私のために声を上げる者は誰一人残っていなかった」と結ばれる。「私は関生とは違う」と理由を探し、口をつぐむ人にもいつか権利を奪われる番が来る。(阿部岳)

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