妄想地理学、引っ越しました。

8月15日、早朝、発熱と左足ふくらはぎの痛みに「今夏、三度目の蜂窩織炎だ!」とかかりつけの、千葉市立青葉病院に緊急入院。約2週間の点滴治療で昨日(8月30日)、退院した。
入院中は、ただただ抗生物質の点滴を、1日8時間ごとに3回、受けるだけ…。ヒマなので、テレビ三昧なのだが、そのテレビが面白くない。ニュースやニュースバラエティはどこも同じ話題を、同じ見立てで報じていて、気持ちが悪い。特に日韓関係については、「韓国悪い」「日本はイイ子」という切り口で仕立てられた予定調和のコメントが品がない。
8月10日に、名古屋の「あいちトリエンナーレ『表現の不自由展、その後』」のその後を観に行くため、名古屋のMさんと愛知芸術文化センターに向かった。9日の夕方、名古屋に着くと、駅前で右翼が「トリエンナーレ問題の責任を取って、大村知事は辞めろ!」とわめいていた。カレラには「トリエンナーレ問題」なのであって、「表現の自由」という問題意識は「ゼロ」だ。東京新聞「発言」欄にボクは、「世の中の委縮が進む」と投稿した。
この国の不自由の証明がそこら中に存在し、表現の不自由がさらに不自由を産んでいる。
すでに、教育・学校・教室・教員には「自由」は存在していない。

表現の不自由展 特報版
辺野古反対派が長期拘留■メディアへ圧力
2019年8月14日:東京新聞・こちら特報部

 抗議や脅迫であいちトリエンナーレの「表現の不自由展・その後」が中止に追い込まれた問題は、外野も巻き込んで騒動が収まらない。この問題に限らず、最近はとかく表現活動に横やりが入りがちだ。少し紙面をさかのぼっても、あることあること。ということで、それらを一堂に集また「こちら特報部」版の「表現の不自由展」をどうぞ。                         (榊原崇仁、中山岳)

「表現の不自由」の最前線と言えば沖縄県だろう。
 辺野古新基地建設への抗議活動を当局側は厳しく締め付ける。カヌーで異を唱える人たちが拘束されるのは日常の出来事。反対派リーダーの山城博治さんに至っては逮捕され、約5カ月も拘留された。
 地元紙の琉球新報や沖縄タイムスはそんな市民の声を伝えてきた。ところが「沖縄の二つの新聞をつぶさないといけない」と、安倍晋三首相に近いとされる作家の百田尚樹氏は訴えた。2015年の自民党の会合でのことだ。
 平和、反戦にからむ活動は不自由だらけ、松江市教委は12年末、原爆の悲惨さを描いた「はだしのゲン」を学校図書館の倉庫に収めるよう市内の小中学校に要請した。描写が過激という理由で、閲覧しにくくしたのだ。
 「梅雨空に『九条守れ』の女性デモ」。この俳句は70代女性が詠み、さいたま市の公民館が14年、月報への掲載を拒否した。女性は法廷で争い、今年2月号で掲載された。
 原発問題も不自由だ。昨秋に東京都大田区であった原発事故関連の写真展では、一部の作品を「政治的」として、区側が展示しないよう求めた。16年、脱原発を訴える経済産業省前のテントは、強制的に撤去された。
古くは1988年、人気ロック歌手の故・忌野清志郎さんも不自由に巻き込まれた。原発に反対する日本語詞を付けた「サマータイム・ブルース」。シングル盤や収録アルバムは一時、発売中止になった。
 同じくミュージシャンの桑田佳祐さん。2014年末の年越しライブで、受賞した紫綬褒章をポケットから出し、オークションにかけるようなパフォーマンスをして不興を買った。
 人気漫画にも不自由が押し寄せる。「遊☆戯☆王」の作者髙橋和希さん。先月、漫画のキャラクターに「独裁政権=未来は暗黒次元!」などと添えた絵をネット上に。批判が相次ぎ、「ご迷惑おかけしました」と謝罪した。
 権力側からの圧力もある。昨夏、東京高裁は最高裁に岡口基一裁判官の懲戒を申し立てた。ツイッターで不適切な投稿をしたことが理由。京都大名物でキャンパス沿いに並ぶ「タテカン(立て看板)」も昨年5月、「景観保護」を名目に大学側が撤去した。
 報道機関もやり玉に。01年にNHK教育テレビが旧日本軍の慰安婦関連の番組は「政治家の圧力や局側の忖度で大幅に改変されたのでは」と議論を呼んだ。
 14年の衆院選などで自民党は「公正な」報道を求める文書を主要マスコミに送った。その割には、今夏の参院選の選挙期間中、「れいわ新撰組」はほとんど報道されなかった。代表の山本太郎氏は皮肉を込めて「放送禁止物体」と名乗った。

消されたたものたち ほかにも ― ご自由にご覧下さい
「性器アート」裁判に■芸能界の自主規制

 「不自由」はもっともっと広い範囲に及んでいる。まずは「わいせつか芸術か」の不自由。近年では「ろくでなし子」のペンネームで知られる漫画家五十嵐恵被告による「女性器アート」がその代表格だ。
 カヤックに自身の性器を約16倍に拡大した枠をかぶせたボートなどを発表。14年に自分の性器の形状を3Dプリンターで再現できるデータを配ったなどとして罪に問われた。17年の東京高裁判決は一部の作品に芸術性を認め、一部無罪と判断した。ろくでなし子さんは有罪部分について上告している。
 江戸時代に流行した性風俗を描いた春画は人気が高い。とはいえ、簡単に展示できない。
 大英博物館で好評だった春画展の日本巡回展は、20カ所以上の美術館や施設が断った。15年にようやく東京都内で開かれ、3カ所で約21万人が詰めかけた。
 出版、音楽、映像などさまざまな表現分野でも、不自由だらけだ。
 改憲を唱える保守系団体を取り上げたベストセラー新書「日本会議の研究」は裁判所の決定で一次、出版できなくなった。書籍に登場する男性が差し止めを求めたためだ。出版元の扶桑社は一部を黒塗りして出版。その後同社の異議が認められた。
 「東京タラレバ娘」などで知られる漫画家東村アキコしが15年に連載しようとした「ヒモザイル」。お金はないが夢がある男性が、働く女性に自分を養わせる内容だった。これが不評だった。「パートナーと呼ぶべきでは?」「読後感がメチャ悪い」など批判が殺到。あえなく休載となった。
 反原発を歌えば発売中止。では愛国ならば?やはり不自由がやってきた。
 人気ロックバンド「RADWIMPS」の曲「HINOMARU」の歌詞に「軍歌のようだ」「戦時中のことと結びつけて考えられる可能性がある」と指摘が相次いだ。
 ボーカルの野田洋次郎氏はツイッターに「(軍歌を書く意図は)1㍉もありません」「傷ついた人達、すみませんでした」と書き込んだ。
 芸能の世界では自主規制の不自由も目につく。今年3月にミュージシャンで俳優のピエール瀧(本名・滝正則)元被告が麻薬取締法違反容疑で逮捕された際、出演したテレビドラマや映画の撮り直しが相次いだ。過去の音楽CDなども回収された。
 違法薬物に手を染めるのは論外とはいえ…。海外の作品なら、薬物を使用している俳優が出演した映画も上映されるし、薬物中毒のミュージシャンのCDも売られる。瀧元被告の時の対応はどうなのだろうか。
 映画やテレビでは近年、喫煙シーンが物議を醸す。
 NHK大河ドラマ「いだてん」、スタジオジブリの映画「風立ちぬ」、劇場版「MOZU」など、登場人物が喫煙すると、見た人の間で「シーンとして必要ない」「演出として必要だ」と議論が起きた。
 抗議や警察からの圧力で、作品の展示に手が入ってしまうこともある。
 愛知県美術館(名古屋市)で14年にあった写真展。写真家鷹野隆大氏が「おれと」と題したシリーズで、自分と男性モデルが一緒に裸で撮影した作品などを展示した。
 匿名の通報を受けた愛知県警は「わいせつ物に該当する」と撤去を命じた。鷹野氏は「警察が介入した事実を残したい」と美術館に伝え、作品の男性器部分を薄い布や紙で覆って展示をつづけた。するとかえってわいせつに見えたようだ。作品に以上に接近する観客が増加。警察の介入は逆効果になった。

デスクメモ
 自由な表現は時に人を不要に傷つける。自制が必要なのはもちろんだ。が、今はそれが広がりすぎていないか。政治的主張まで自粛しなければならない世の中となると息苦しいし、あまりに危うい。どこに線をひくべきか。不自由の数々を振り返り、考えてもらえるとありがたい。          (裕)

憲法学者が考える不自由展中止
 自由を制約したのは誰か
2019年8月14日:朝日新聞

 あいちトリエンナーレの企画展「表現の不自由展・その後」が中止に追い込まれた。憲法が保障する「表現の自由」の問題として考えた時に、どのような意味があるのか。行政による文化芸術活動への助成に詳しい慶応大学の横大道聡(よこだいどうさとし)教授(憲法学)に聞いた。
「誰の」表現の自由が、「どのように」制約されたのか
 ――今回の件は、どこに注目していますか。
 「<誰の>表現の自由が、<いつ><誰によって><何を理由として><どのように>制約されたのかを整理しなければ、問題の核心・焦点がぼやけてしまうと思います」
 ――まず、「誰の」表現の自由が「どのように」侵害されたのでしょうか。
 「影響を受けた可能性がある主体として、大きく分けて、①展示作品の製作者②不自由展担当の実行委員会(民間のメンバー)③作品を見られなかった観客④社会全体の四つを考えることができます」
 「もともと表現の自由は、戦前のように政府批判をしたら逮捕されるなど、あからさまでわかりやすい圧力を想定したものでした。基本的な発想は、刑事罰などによって、表現活動を妨げられないということです。一方で表現の自由は、発表の機会を提供したり、作品を購入・展示したりすることまで、行政に義務付けるものではないというのが、判例や憲法学の通説的な理解です。そのため、不自由展を担当した実行委員会や展示作品の作者の『表現の自由』の問題であるとする議論の立て方は、少なくとも裁判では、簡単には通用しないと思います。自分のお金・時間・場所で同じ表現を行うことは何も規制されていないからです。誰かがお金を出さない、場所を貸さないなどの微妙なやり方で表現の自由に対して影響を与えようとしてきたとき、それを直ちに表現の自由の侵害ということは困難を伴います」
 ――法的には「表現の自由」の問題ではないということですか。
 「『表現の自由』が保障する自由な情報の流通によって、個別の観客を超えて社会全体が得られるはずだった価値が傷つけられた、ということは言えると思います。作品がトリエンナーレという場で発表されることによって、多くの人が見て考えを深めるきっかけになるといった意味があったはずです」
 「ただ、これも訴訟になると、仮に憲法上保障された価値が損なわれていても、『誰の』『どの権利』が具体的に『侵害』されたという風に、個人に還元できないと難しいのです。たとえば、首相の靖国参拝は政教分離上の問題があったとしても、違憲国賠訴訟で裁判所が、訴えたあなた個人の権利は侵害されていない、と訴えを退けるのと同様です」
「いつ」「誰によって」「何を理由として」表現の自由は制約されたのか
 ――制約されたのが社会全体にとっての表現の自由だとして、それは「いつ」「誰によって」「何を理由として」制約されたのでしょうか。
 「制約が生じたのは、開催中止の段階です。制約したのは、トリエンナーレ実行委員会であり、その理由は専ら『安全』でした。政治家による発言もありましたが、それが中止の理由ではないと芸術監督の津田大介さんが明言しています」
 「トリエンナーレの事業主体は実行委員会であり、実行委員会の中には知事や市長も入っている。津田さんは実行委員会の依頼で総監督として責任を負っている。官民混合の組織であることが問題を複雑にしていますが、芸術監督自身が実行委員会と一体となって中止の判断をしたことが、今回の問題だと思います」
 ――なぜでしょうか。
 「本来、外部の圧力から展示を守るべき立場にいたからです。芸術への援助をする場合、使えるお金には限りがありますから、どこにどれだけの援助をするかといった内容にわたる判断が不可避的に求められます。しかし、それを政治的なよしあしで判断してしまうことには問題がある。そこで憲法学では、芸術助成に対する政治からの介入を避けるためには、専門職が展示について自律的に判断して、その判断を尊重する体制をつくるのが、あるべき姿だと考えられてきました。イギリスでは、行政が芸術に助成する際に、行政と距離を置いた専門家らによる第三者機関が助成対象を審査して助成先を決める『アーツカウンシル』という仕組みがあります。アメリカでも基本的な考え方は同じで、日本でもこれを参考に議論していたのです。日本の文化芸術基本法にも、このような考え方が反映されています」
 「しかし今回、芸術監督という専門職の立場であるはずの津田さんが中心になって、中止の判断をしました。専門職の自律的判断に任せれば表現の自由の侵害から芸術が守られる、という議論の前提が崩れているのです」
 ――それは異例のことなのでしょうか。
 「実は日本ではこれまでも、専門職であるはずの美術館などの館長が、展示をやめる判断を主導する事例がありました。たとえば、今回も展示された昭和天皇の写真をコラージュした『遠近を抱えて』という作品の場合です。富山県立近代美術館で一度展示して購入した後、県議からの批判を受けて、(再展示せず)売却することや図版の焼却を決めました。その判断は館長が行いました。その後同じ作品を、沖縄県立美術館での企画展で展示する話が持ち上がった際に展示しない判断をしたのも、やはり館長でした」

「安全」は中止の理由になるか

 ――安全を理由にした中止決定の妥当性について、参考になる判例はありますか。
 「表現の自由と同じ21条の『集会の自由』についての判例があります。1980年代にある政治団体が集会のために市民会館を借りようとして、市が、反対者が来て乱闘が起こり『公の秩序をみだすおそれがある』と判断して貸さなかったことについての訴訟です(泉佐野市民会館事件)。裁判所は、集会の自由の実現に関わるため、人の生命や財産などに対する明らかな差し迫った危険が具体的に予見できるような場合に初めて公の秩序をみだす場合といえる、と条件を非常に絞り込みました。その時に、『主催者が平穏に集会をしようとしているのに、反対者が来ることによって混乱が起きるからやめるというのは反対者に拒否権を与えるのに等しく、騒ぎを起こしたもの勝ちになる。それを理由に貸さないという判断をしてはならず、警察などが守る義務があるのだ』という趣旨のことを述べています。ただしこのケースは、主催者の側と反対者の側が暴力的抗争を繰り返していたため、本当に差し迫った危険があったと判断されましたが」
 ――表現の自由に関する判例はありますか。
 「今回も出品されていましたが、元慰安婦の女性の写真展がニコンの写真サロンで行われる予定が中止になったという2012年の事件があります。主たる争点は、会場提供の契約を結んでおきながらその債務を履行しなかったという民事上のものでしたが、ニコン側が、契約上の債務を履行しないことについて正当な理由があると主張する中で会場の安全の問題を述べています。これに対して、裁判所が『抗議活動があることが予想されても、契約履行に向けた努力をする義務があり、それを履行せずに一方的に開催中止とした』と判断し、損害賠償請求が認められました」
 ――それらを踏まえて、今回の判断については。
 「警察に警備の強化をお願いしたり、手荷物検査を厳格化したりするなど、中止よりも穏当なやり方では本当に安全管理できないか、きちんと検討してから中止という判断に至ったのかどうかがポイントになると思います」

政治家の発言に問題はないのか

 ――政治家が公金支出をしないことをにおわせる発言をしたのは、法的には問題ないのでしょうか。
 「公金支出をもって、援助を受けた表現が自動的に国や自治体の見解になるわけではないということへの、誤解があるようです。政治的に気に食わない作品の展示に公金が用いられたとしても、その表現を支持したことにはなりません」
 「先ほど、芸術助成のあり方として、行政が政治的なよしあしで対象作品を決めるのではなく専門家が決めるべきだという考え方を紹介しました。『金は出しても口は出さない』という原則であり、今回の政治家の発言はこれに反しています」
 ――政治家は、美術館や芸術祭に対して、口を出してはいけないのでしょうか。
 「どういうイベントを開くかに全く関与できないというのは非現実的です。例えば今回のように大きな美術展にお金を出すとか、舞台演劇か彫刻かといったジャンルの選択のレベルにおいては、当然口を出すことができるでしょう。また、文化多様性を促進するための美術展だからそうした作品を中心に取り上げる、といった作品選定の基準までは、言っていけないということはないでしょう」
 「しかし、芸術監督を置き、芸術的なすばらしさのみを根拠に作品のセレクションをしたかのような外観を作りながら、政治的見解を忍び込ませるのは、表現空間にゆがみを生じさせることになります。観客は、芸術のプロが良いと判断したという目で見るのに、後ろから腹話術人形みたいに言わされていたということになると評価がゆがめられてしまいます」
 ――「芸術的なすばらしさのみを根拠に作品のセレクションをした外観を作りながら、政治的見解を忍び込ませる」ということでいえば、表現の不自由展の作品についてもそのように批判する意見があります。
 「本来、そのような批判ではなく建設的な議論を起こすことが、芸術の専門家の腕の見せどころであったはずであり、キュレーションの工夫などによって技術的に不可能ではなかったと思います。ただ、批判や攻撃を避けるためにあえて『両論併記』して、制約されていない作品まで不当に持ち上げることは、結果として表現の空間をゆがめることに注意しなくてはいけないでしょう」
今回の出来事が問いかけたもの
――今回の問題が残した課題とは。
 「専門職自身が中止の判断をしたことの意味は問い続けるべきでしょう。そのためには、芸術は何のためにあるのか、なぜ国家や自治体が特定の文化や芸術に税金を支出することが許されるのかを、確認しておく必要があります」
 「芸術は何のためにあるのでしょうか。経済学的な発想ならば、国家に対して芸術立国として威信を与える、観光資源になる、教育のためなど、いろいろなメリットがあるから補助金を出す、と考えるでしょう。一方、そうした短期的な経済的メリットでなく、社会全体が豊かになる、ものの見方そのものに良い影響を与える、その意味で非常に基底的な価値を育てる、だからこそ芸術助成が国家の役割として正当化できるのではないか、という議論もできます」
 「芸術助成というものが一体何のために行われているかという目的にかんがみれば、専門職の判断であれば何でも認められるというのではなく、芸術の振興が目指そうとすることとは逆の方向に向かわないよう一定の縛りをかけるべきです。芸術の本質的な役割については文化芸術基本法にも書かれているので、そうした法律も生かしながら、どのように縛るか議論を進めないといけないと思います」
 ――政治家の発言の中には、「表現の自由」をほとんど顧みていないように聞こえるものもありました。日本社会の中で、表現の自由はどれだけ重みを持っているのでしょうか。
 「むしろ当たり前すぎるんですかね。水や空気みたいに。新聞が好きなことを書いて、テレビもそれなりに政権批判ができて、そういう状況が当たり前すぎて、むしろ大切と思っていない。『こういうけしからん表現が規制されたって自分には関係ない』という感覚もあるのでしょうか。あの介入を認めてしまうと別の介入も認めることになり、さらにこちらも、という想像力が働かないということに危惧を感じます」
 ――表現の自由で保障されない表現はありますが。
 「児童ポルノなどの犯罪や、名誉毀損(きそん)にあたるものがそうですね。今回の脅迫も表現の自由によって保障されないことは明らかです。難しいのは、人種差別的な表象をした彫刻があるとして、それがヘイト表現か、そうした表現に対する風刺か、判断に迷うような場合です」
 「アメリカでは、弁護士らがつくる自由人権協会という団体が会員を大幅に減らした事件がありました。1970年代に、ナチスドイツから命からがら逃れてきた人が大勢住んでいる村で、あるネオナチ団体がナチスを称賛するパレードを計画し、それを止めるために村は条例を作るなどして阻止しようとしました。それに対する訴訟で、協会は表現の自由を守るためとして団体の弁護に参加しましたが、それに反対するリベラル系の会員が大量に脱退したのです。難しい問題ですが、立場にかかわらず表現の自由を守るために、そこまでするという人たちもいます」
 ――なぜ、自分と反対の考えまで守らないといけないのでしょうか。
 「哲学者のジョン・スチュアート・ミルは次のようなことを言いました。気に食わない表現を規制するというのは、その表現が気に食わないと思っている人に対して害を与える。なぜかと言うとそれと自分の見解を比べて、自分が正しいのだと確認する機会が奪われるし、自分が間違っているかもしれないと考え直す機会すらなくなる。だから、反対する表現は反対する人のためにこそ重要だ、と。気に食わないから自分とは関係ない、ではなく、そういう表現が流通していることによって、自分も利益を得ているのではないか。そういった想像力を持つことが必要だと思います」(聞き手・高重治香)

大阪市立小の児童朝礼に「愛国の歌姫」
 市民団体が抗議
2019年7月3日:毎日新聞

 大阪市立泉尾北小(小田村直昌校長)が改元に伴う10連休後の5月8日、全校児童を集めた朝礼に「愛国の歌姫」と呼ばれる女性歌手を招き、初代天皇とされる神武天皇に関する歌や、「ああ勇ましく、日の丸が行くぞ」という歌詞のオリジナル曲などを聞かせていたことが3日、分かった。
 市民団体が「国民主権にそぐわない内容。公立学校でこのような集会は不適切で、児童や保護者に謝罪すべきだ」と市教育委員会に抗議。市教委の担当者は取材に「神話など不確かな内容を教育の場で取り扱う際は、多面的な捉え方をするよう留意すべきだった」と話している。
 関係者によると、朝礼では小田村校長が5月1日に即位された天皇陛下について、神武天皇から126代目に当たると説明。歌手からは、仁徳天皇にまつわる「民のかまど」の話もあった。小田村校長は同小のホームページに朝礼の様子を写真とともに掲載。「とてもいいお話」などとコメントした。歌手に謝礼は支払っていないという。
 市教委の聞き取りに小田村校長は「文部科学省の通知にのっとって実施した」と説明。文科省が4月22日付で都道府県教委などに出した通知は、代替わりに際し「国民こぞって祝意を表する意義について、児童生徒に理解させるようにすることが適当」としている。
 小田村校長は銀行勤務を経て2012年に大阪府大東市立小の校長に就任。その後、大阪市教委の公募で同市立小の校長になった。保守派の講演会やインターネット動画などで発言している。泉尾北小は「校長は多忙で、対応できない」としている。(共同)

「憲法違反、校長は説明すべきだ」

 ジャーナリスト青木理さんの話 政治的中立が求められる教育の現場で、しかも全校児童が参加せざるを得ない朝礼で、神武天皇など事実に基づかない神話を基に特定の価値観を押し付けていると言える。信教や思想信条の尊重といった観点から憲法違反だし、教育の原則にも反する。外国籍の子どもらへの配慮も全くない。一部の右派にみられる戦後民主主義に対する肥大化した憎悪が、稚拙かつ乱暴な方法で教育現場に表れているのだろう。校長は趣旨をきちんと説明すべきだ。

やじ排除発言 「表現の自由」の曲解だ
2019年8月30日:東京新聞

 選挙の街頭演説にやじを飛ばした人がまた、警察に取り押さえられた。柴山昌彦文部科学相は、やじは「権利として保障されていない」というが、「表現の自由」を理解していないのではないか。
 選挙の街頭演説を、私たち聴衆はひと言も発せず、黙って聞け、ということなのか。
 埼玉県知事選の投開票前日、二十四日夜の出来事である。JR大宮駅近くで自民、公明両党推薦候補の応援演説をしていた柴山氏に対し、「柴山辞めろ」とか大学入試共通テストの「民間試験撤廃」などとやじを飛ばした男性が、埼玉県警の警察官数人に囲まれ、遠ざけられた。
 柴山氏は二十七日、閣議後会見で「表現の自由は最大限保障されなければならないが、集まった人たちは候補者や応援弁士の発言を聞きたいと思って来ている。大声を出したりすることは、権利として保障されているとは言えないのではないか」と県警の行為を擁護したが、「表現の自由」を曲げて解釈しているのではないか。
 もちろん政治活動の自由は最大限尊重されるべきで、公職選挙法は選挙演説の妨害を禁じている。
 しかし、駅前という開かれた場での選挙活動である。そこに集まった人たちには政権の支持者もそうでない人たちもいて当然だ。そうした場でも、政策への賛否を言い表すことは許されないのか。
 埼玉の事例は、やじで演説が続行できなくなるような悪質な行為に当たるとはとても思えない。もし選挙妨害に当たらない段階で、公権力がやじを強制排除したのなら、明らかに行き過ぎだ。
 柴山氏が政治家として語るべきは、警察の介入を正当化することではなく、警察の公権力行使が表現の自由を侵しかねないことへの懸念ではなかったのか。
 七月の参院選でも、札幌市で行われた安倍晋三首相の街頭演説でやじを飛ばした男女が北海道警の警察官らに相次いで排除された。道警は「現場でのトラブル防止の観点から措置を講じた」とするだけで、詳しい説明はしていない。
 政権に異を唱える発言が、トラブル防止を名目に警察に排除される。公権力を行使する立場にある政治家は、表現の自由を尊重すると言うものの、実際に侵されても放置する。こんなことが安倍「長期」政権で続く。
 その背景に、批判や異論に耳を傾けようとしない不寛容な政権の体質があるとしたら、構造的問題であり、根が深い。

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